《2026年7月26日説教要旨》 

 

 

礼拝説教 「婦人の力」            2026.7.26

聖書箇所: フィリピの信徒への手紙 4章1~3節

 

 先週の礼拝で私たちは、ガラテアの信徒への手紙という、僅か6章からなるパウロによる手紙から、メッセージをいただきました。今日示された聖書は、それよりもさらに短い4章で構成される書簡がフィリピの信徒への手紙です。フィリピ書は、「獄中書簡」と呼ばれて来ました。つまり、パウロが牢獄につながれていたときに書いた手紙であると言われています。この書は、エフェソの地で書かれたものであるとされています。そのことを裏付けるのが、この手紙の1章7節の中で、「監禁されている」と書かれていること、あるいは同1章13節で、「わたしが監禁されているのは」とあること、更には、同1章14節で、「わたしが捕らわれているのを見て」と書かれている。これらの記事によって獄中で書かれた手紙であることが裏付けされています。手紙が書かれた時期は、恐らくは、パウロがエフェソに滞在していた紀元52年から55年の間であろうかと思われます。
 この書簡の名である「フィリピ」という名の町は、紀元前358年、アレクサンドロス大王の父フィリッポス二世によって建てられました。以前にも巻末の地図で確認しましたが、ここはエーゲ海に面する交通の要所に当たるために、紀元前42年にはローマの植民地となりました。そして、この町に住むローマ人はローマ市内に住む者と同じ特権が与えられました。使徒言行録1612節に、「マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピ」と記されています。さらには同じ使徒言行録169節で、幻の中で一人のマケドニア人が、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」とパウロに願っておりますが、その幻の声に促されてフィリピを訪問したことが記されています。この手紙は獄中で書かれたものなんですが、その文中に「喜び」という言葉が頻繁に出てくるために、古くから「喜びの手紙」と言われて多くの人に(した)われて来ました。何故ならば、今日の聖書箇所のすぐ後の
44節で、次のように書かれているからです。

「主において、常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ4:4)

この大変有名な御言葉が、このフィリピ書の言わんとする内容を集約している言葉だと言えると思われます。

 さて、ちょっと先を急いでしまいましたが、元に戻って、今日の言葉を見て参りたく存じます。

 「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかり立ちなさい。」(4:1)

この箇所に、「冠である愛する人たち」という言葉が見られます。この中の「冠」なる言葉は、ギリシア語では、「ステファノス」と言いますが、これは親愛の情を示す言葉であって、競争に勝った者に与えられる花の冠から喜びの(しるし)を意味する言葉です。この語のすぐ前に示されている「慕っている」という言葉が、熱烈な親しみを表す言葉であるのと同様に、パウロの気持ちを上手に表現している言葉だと言えるように思います。

パウロは1節で、フィリピの教会の兄姉を「私の喜び」と語るのですが、これは、彼らが《パウロの喜びを生み出す原因を作ってくれている》、という意味です。無論のこと、(まこと)の喜びは神から与えられますが、フィリピの兄弟たちの行動も、また、自分の喜びであるとパウロは語るのです。

フィリピの教会は、パウロの伝道によって生まれた教会でした。言わば、パウロとは親子の関係に等しいとも言えます。子どもの成長が親にとっての喜びであると言えるように、教会の兄妹がパウロの喜びである事は、容易に理解できるかと考えます。そのようなフィリピの人々に対して、パウロは1節の最後に、「このように主にあってしっかりと立ちなさい。」と語っています。ここで、「このように」と語っているのは、すぐ前の3章で述べた言葉を受けたものです。それと申しますのは、キリスト者であることを自称している人々が、必ずしも真実のキリスト者ではないことを意味している言葉です。自分の欲望のために生きたり、十字架の教えに反する生き方をする者もいる。しかし、真のキリスト者は、天に国籍を持ち、「主にあってしっかりと立つ」のが真のキリスト者の生活である。そのような内容が、ここでは強調されているのです。

続く2節には2人のご婦人の名前が書かれています。エポディアとシンティケという名前です。二人は3節に登場するクレメンスや他の宣教仲間と共にパウロに従った婦人たちです。ここで《命の書に名を記されている》とあるのは、旧約聖書や黙示録の中に使われている表現です。その意味は「救われるべき人々の一員」という意味を持っています。パウロはこの二人に対し、「主において同じ思いを抱きなさい。」という勧告をしています。この意味合いとしては、二人の間に何らかの行き違いがあったことが推測できます。だから、パウロは、主にあって一致をみるようにと勧めるのですが。それは、二人の間に於ける一致というよりは、彼女たちと共同体との一致と思われます。「真実の協力者」に対して、二人の婦人を支えてくれるように頼んでいることから、そのような事が窺い知ることができると考えられます。

以前にも学んだように、旧約聖書では、人の数を数えるのに成人男子だけの数しかカウントしておりません。しかし、その割には、旧約聖書の中では沢山の婦人が登場しています。人類最初の女性エバを始めとして、アブラハムの妻サラと、その女奴隷のハガル、ロトの娘たち、デボラの歌のデボラ、モーセの姉の女預言者ミリアム、ルツ記のルツ、などなどが思い浮かんで来ます。

また、新約聖書においても、主イエスの母マリアを筆頭に、サマリアの女、ヘロデの妻ヘロデア、マルタとマリア、マグダラのマリア、ピラトの妻、などなど。これまた婦人の登場人物は豊富です。主イエスの周りには、12人の弟子たちだけでなく沢山の婦人が付き従っていたことが紹介されています。更には、パウロを支えた女性とされている、ケンクレアの姉妹フィベ(ロマ書16:1)、同労者プリスキラ(アキラの妻)(同16:3)、紫布を商うリディア(使徒16:14)などの婦人も良く知られているところです。これらの女性たちは、単に母や主婦の代表として登場するのではなく、主イエスやパウロを支えた婦人として、それぞれの役割を果たしています。彼女たちは、その名を知られていない女性ではありますが、決して社会的な使命を持たない人々ではなかったのであります。

さて、日本の教会では、まだあまり知られていない神学なのですが、「フェミニスト神学」という分野が存在します。これは従来からあった、主として西洋白人エリート男性がリードして来たキリスト教の神学を、性差別、人種差別、民族差別、階級差別などのあらゆる差別的視点を排除して、批判的に捉えて行こうとする神学、と言えるように思います。このように言われた時に、ここにおいでの多くの皆さんは、それはもっともな事だと同意されるのではないでしょうか。しかしながら、そうとは言うものの、自分が差別論者だとか、いつも偏った視点で物事を捉えている、と思っている方は殆どいないのではないと思います。誰もが、自分は正しく、公平に物事を見ていると思っているのではないでしょうか。いつも公平に見ているつもりが、時として偏った見方になってしまっているのが、人の常であるといって宜しいかと思います。

私自身、自分は平均的な視点しか持っていないと思っていますが、初めてフェミニスト視点による聖書解釈という学びに接したとき、これはあまりにも過激な解釈であって、とても付いていけないと唖然(あぜん)としたことを、今でも記憶に残っております。多分、フェミニスト神学を主張する人にとっては公平、公正な視点での聖書解釈であったのでしょうが、それは従来の正統であるとされた解釈からは、かなり逸脱するものであった、と言っても宜しいのではないかと考えます。その時の初対面から、既に26年という歳月が流れましたが、未だにこの神学がキリスト教社会の主流となって行く気配というものは見られず、どちらかと言えば退潮傾向にあるのではないでしょうか。

しかし、フェミニストの視点が正しいかどうかは別として、常に自分の考え、見方が本当に偏ってはいないかどうかを確認することは大切だということを、この学問分野から教えられました。これは一定の収穫であると言えるように思われます。現代の日本が、男性中心の父権性社会であるかどうかを別としても、世界的に見れば、キリスト教の教職者の数としては従来から男性が多く、その意味に於いても、日本は決して男女平等ではないと言われる事にも一理あるように思えます。各教会の現状を見ればわかる通り、教会員の人数としては圧倒的に女性が多いという傾向を持つにも関わらず、教師職に女性が少ないのは、改めるべきだと考えるものです。それは、今日の聖書に示されるように、主イエスやパウロの周辺に多くの力ある婦人がいて、キリスト教の伝道に少なからぬ力を発揮したことを思えば、これからもそのようなキリスト教世界でなくてはならないと考えております。

私自身の信仰暦を考えたとき、私が三浦綾子さんという女性クリスチャンを通して、キリストに導かれたことを思う時に、更に多くのご婦人が、キリスト教伝道の先頭に立って、主を求める人々を導いていただくことを願っています。マザー・テレサやシモーヌ・ベーユといった有名な外国人伝道者の名を上げるまでもなく、我が日本においても矢島(やじま)楫子(かじこ)植村環(うえむらたまき)()()元子(もとこ)といった明治・大正・昭和のキリスト教の優れた先達たちがおられます。特に個人的には、神学生の時代にお世話になったキリスト教婦人矯風会の初代会頭であり、女子学院の初代校長になった矢島(やじま)楫子(かじこ)先生は、尊敬してやまないキリスト者の一人です。そのような婦人たちの後を追い、性の壁を打ち破って、日本のキリスト教をリードしていただく事を切に願うものです。今日の説教題である「婦人の力」という題は、今までお話した初代キリスト教の時代から、面々として引き継がれてきた婦人たちが持つ、キリスト教伝道の潜在力に対する「個人的期待の結晶」とでも言うべきか、と考えます。

 本日与えられたフィリピ書の218節でパウロは、「わたしと一緒に喜びなさい」と語っており、今日の箇所に続く44節においても繰り返して、「主において常に喜びなさい」と勧告しています。いつも、喜んでいるための秘訣は「主にあって」、つまり《主と固く結ばれて》という御言葉に集約されます。主イエスに従い、使徒パウロに付き従った婦人たちが、悲しい時、苦しい時、楽しい時、感謝の時、すべての時において、主と結ばれていたように、人生のどんな環境の時にも、主が共にいてくださることを信じましょう。どんな問題にも感謝をこめ、祈りと願いとによって、私たちの求めるものを神に告白し、主の愛とみ翼に守られつつ、いつも喜びの信仰生活を続けて行くことを願っています。それではひと言お祈り申し上げます。   アーメン