下記に10月第3~11月第2週の冨里教会礼拝説教の録音と説教原稿を載せました。
プレーヤー表示の ▶ マークをクリックすると礼拝説教が聴けます。下にある要旨原稿を見ながらお聴きください。
起動中に || をクリックすると再生が停止します。
(11月9日説教)
(11月2日説教)
(10月19日の説教)
聖書:ルカによる福音書21章25節~36節
今年のクリスマス・イブ祝会の翌日12月25日にクリスマスのお祝いを迎えます。申すまでもなく主イエスのお誕生日です。クリスマスを英語で書くと「Christmas」ですが、スペルを略しますと ”X’mas” とも書かれます。このXの1文字は<<カイ>>というギリシア文字を使いますが、これは「クリストス」というギリシア語の綴りでの先頭の1文字です。
ギリシア語の「クリストス」は、「油を注がれた者」という意味を持っているヘブル語の言葉で「メシア」という言葉をギリシア語に訳したものです。クリスマスの”mas”は「ミサ」すなわちカトリックで言うところの礼拝のことです。ですから、「クリスマス」という言葉は、「キリストのミサ」つまり「キリストの礼拝」という意味を持っています。
ヘブル語の「メシア」というのは、元々はダビデ王の子孫を待望する言葉でした。ですから、そのメシアであると思われたのがイエス様だった訳です。以前にも申しましたが、イエス・キリストという言葉は、一番短い形式の信仰告白です。その意味は、「イエスは救世主です」という信仰を証しする文章です。クリスチャンだからこそ告白することの出来る言葉であり、イエス・キリストというのは主のお名前ではないということを、改めて確認しておきたいと思います。
今日の説教のタイトルを「神の国は近づいた」と致しましたが、新約聖書の福音書の中でこのように発言したのは、洗礼者ヨハネが最初の人です。ヨハネがこのように語った理由は、「終末の到来に備えて自分の罪を悔い改めなさい」と訴える為でした。
ユダヤの民が神の救いを求めたのは、奴隷であったエジプトからの脱出(出エジプト)、アッシリアの侵攻、バビロン捕囚、ローマの殖民地支配という、相続く苦しみの中から、自分たちを救い出してくれる方が来ること、すなわち救世主の到来を待ち望んだからであります。「救世主はダビデの子孫から生まれる。」これもかつてのダビデ王朝の復興を望むことからでありました。ユダヤの民にとって、この救いの期待は正に現実のことでありました。現代のキリスト者である私たちも、様々な苦しみの中にあった時に、神の救いを求め、キリストの信仰を持たれた方が多くおられるのではないでしょうか。苦しみの中にあったユダヤの民が救世主の到来を待ち望んだのは、「命の叫び」と言って良いものであったと思われます。そのようなユダヤの民が求めた救いと、現代の私たちが求める救いとでは、一体どのような違いがあり、どれほどの切実さの違いがあったのでしょうか?また、私たちはメシアの到来をどのように捉えれば良いのでしょうか? 今日の聖書からは、そんなことを読み取りつつ、共に考えて見たいと思います。
福音書は「天の国」「天国」「神の国」などの言葉で、神様が居られる場所を指し示しますが、これらの言葉は全て同じ事柄を表現したものです。
ユダヤの民はエルサレムが滅亡する時、すなわち終末の時に神の国が来る事を信じました。その時に自分たちが神の救いに預かり、天に引き上げられ、永遠の命に預かる事を信じました。一方、キリスト教の救いは、全てのキリストを信じる人々が、終末にはイエス・キリストと共に復活することであります。復活とは、永遠の命に預かることであります。即ち、キリストの救いとは、永遠の命を与えられることであります。
代々のキリスト者は神の国の到来を待ち望み、今日の聖書21:34が教えるように、いつも目を覚まして、自分たちのこの世での生活を、それに相応しいものへと備えたのでした。かつての日本のキリスト教宣教運動で見られた、禁酒・禁煙の勧めなども、このようなキリスト者として相応しい生活の備えという意味を持つものでありました。
皆さんもまだ記憶に新しいところであると思いますが、西暦2000年の到来に備え、キリスト教の色々な教派、特にキリスト教では異端とされた教派に属する人々が、2000年(ミレーニアム)にキリストが再臨する事を訴え、さかんに自分たちの考えるキリスト教の教義を宣伝し、人々に勧誘した時がありました。しかし、2000年の年が何事もなく過ぎ去り、新しい年が明けてしまうと、あのさわぎは一体何事だったのかと、異端的な教えから離脱するものが多くいたことを知らされました。
このような出来事を思い起こすとき、私たちが信じるキリスト教信仰において、一体「終末」とは何であるのか、「神の国」とは、実際には何を示すものであるのかを、改めて問い直させられるのではないでしょうか。
私は28年前の1997年、クリスマス礼拝に於いて受洗しました。キリスト教会に通い始めてからまだ8ヶ月目のことでした。その当時を振り返るならば、洗礼に与ることの真理を理解していたのかについては、真に疑問だったと言わざるを得ません。当日の信仰告白の場で参照した聖句は、マタイ福音書7章7節の「求めよ、さらば与えられん」でした。この聖句に象徴されるように、生きることに行き詰っていた私が求めたのは神の救いだったということです。その日から13年目のクリスマスが、あと1月の後に今年も巡って参ります。
ユダヤの民は神の国の到来によって、この世の苦しみから逃れることを望みましたが、私自身が求めたものも、生きることに躓き、その苦しみから逃れることでありました。この点において、ユダヤの民が求めた救いも、代々のキリスト者の多くが求めた救いも同じ種類のものであったように思われます。それでは、私が自分自身に与えられた救いというのは一体どんなことと捉えているか? 本日は更に、この事についお伝えしたいと思います。
ヨハネも、主イエスも、この世の終わり・終末を預言しました。その言葉というのは、当時の社会に生きた人々が想定出来るように表現されたものであり、現代に生きる私たちが納得するような、科学的に説明されたものではありません。私たちが普通に世の終わりと言われれば、それは私たちにとって、悩み、惑い、恐れ、不安で絶望するような災いの時です。しかし、終末思想というのは、そのような状況に置かれた時、キリスト者は希望を抱くことができるのだと教えるものであります。信仰を持つ者、持たない者の、終末に関するイメージの違いは、一体どこから来るのか? それは、簡単に言うならば、この世に望みを置く者と、神に望みを置く者との違いだと言えるではないでしょうか。そして、それはまた、イエスを主と崇め、礼拝し、審判者としての終末の日が到来する事を待ち望むかどうかの違いと言えましょう。イエスを主と崇め、迎える準備のない者にとって、終末の到来は嘆きの日です。それに対して、キリスト者にとっては喜びと希望の日であります。しかし、現代のキリスト者である私たちが、初代キリスト者のように、主イエスを迎える準備が出来ているのかははなはだ疑問です。
主イエスは、今日の聖書、ルカ21章36節で、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」と教えます。この世の誘惑に目を眩まされた者としてではなく、この世の終わりと、主イエスの到来を承知している覚醒した(起きている)者として、目をさまし祈りをたえず献げることを訴えるのであります。
これは人生の終わりである「死」に対しても当てはまる考えであります。人が死へと向かうとき、この世の事柄は全く頼りになるものではありません。つまり、人は死を迎えたとき、その先に何があるのか分からないので不安を覚えるのです。私たちキリスト者は、自分たちが死ぬとき、主なる神に会う事を信じます。そのための備えとして、また世の終わりへの備えと同じこととして、神の国に凱旋するための準備をするのであります。
さて、これまでお話した内容から少し後退しますが、ユダヤ人にとって神の国は到来したのでしょうか? メシアは来たんでしょうか?
シオニズムという言葉があります。この言葉によって示される「シオン」は、エルサレム郊外にある丘でイスラエルと同じ場所を指しています。19世紀終わりから20世紀にかけて叫ばれた「シオンに戻ろう」つまり、エルサレムに国家を建設しようという運動がシオニズムです。これによるイギリスの後押しにより、パレスティナの地に現在のイスラエルという国が建設されました。しかし、その後もパレスティナでの紛争は、終わることなく続いております。
こう考えて参りますと、先ほど発した「神の国の到来」に対する答えはノーです。ユダヤ人にとって、神の国もメシアも未だに来てはいないのです。何故なら、イエスは彼らにとって、モーセやエリアのような預言者の一人ですから、メシヤは来ていないと言えるように思います。シオニズムによって念願の領土を得たユダヤ人たちですが、その事も含め、彼らには神の国の到来は未だ現実のものとなってはいないと言えるでしょう。
これに対して、神の御子イエスへの信仰告白をした私たちキリスト者は、既に主イエスという救世主をいただいています。この暗い世を照らすために、神は、たった一人の御子を地上にお送り下さった事を信じています。2000年の昔にメシアが、この地上に降りたことを信じるものであります。従って、神の国はその時から既に来つつあるのだと考えます。神の国は既に始まっていると考えます。では、終末はいつ来るのか? それは、メシアが再び地上に来る時であります。イエス・キリストが再びこの世に来るとき、神の国は完成し、私たちキリスト者はすべてが神の国に上げられるのです。
私は今週もこの講壇で、キリストの信仰を証ししております。それは何故か? 理由は私自身が、イエス・キリストの救いに与かることができたと考えているからです。生きることに躓き、生きる目的を完全に失っていた私が、神の救いに与り、生きることへの新たなる希望をいただき、来るべき神の国への確信を頂戴した。そのように考える私が、ここにお集まりの皆さんとともに、キリストの救いを分かち合うことを希望するからであります。私が頂いたキリストの救いの確信を、皆さんにお伝えしたい。そのことに尽きます。
それはダマスコに向かう途上のパウロが、突然イエスに出会った体験のような、明白な体験ではないかも知れません。私自身が抱くキリストの救いに対する確信は、パウロの体験に比べればほんの僅かなものと言えるのかも知れません。しかし、細やかであっても他者と共有せずにはいられなくなる。これこそが、救いに対する私の実感と言えます。私はそのように考えます。
ここにお集まりの皆さんも、長い信仰生活の中で、お一人お一人の、キリストの救いに対する確信と希望とを積んで来られたことと考えます。どうぞ、その思いを皆さんと共有しようではありませんか。主の教会に連なるものとして、その喜びをお証しいただき、多くの兄弟姉妹たちと分かち合って行きたいと願うものです。
今年も私たちは主のご降誕を祝います。主イエスがその昔地上に下りた事を祝うのです。神の国はその時に既に始まっており、現在も続いています。いつの日かこの世に終末は来ます。その時にこそ、地上の神の国は完成し、全てのキリストを神の子と信じる者たちが、神の国へと入れられるのであります。近づきつつある神の国を待ち望みつつ、今年も豊かなクリスマスをお祝いしようではありませんか。お祈りいたします。 アーメン
聖書箇所:ルカによる福音書20章27節~40節
旧約聖書、申命記の25章5~10節に「レビラート婚:夫の兄弟(ラテン語)婚」と呼ばれる風習について記されています。この風習は現在でもアラブの一部の部族で行われてるものです。つまり、男子が子どもを残さないで死んだ場合に、その男の父か兄弟が彼の名と嗣業を存続させる為に、その寡婦と結婚すること。これは、少なくとも現在の日本では絶対に許されない、女性は子供を産むために存在すると言ったような、男尊女卑の思想から出た考えではないかと考えます。広い世界で未だにそんな習慣を維持している民族が存在するというのは驚きです。
逆に考えれば、子孫を残すことは人類にとって最も重要な務めであって、すべての生命にとって欠くべからざる掟・原則と言えるように思います。世界の先進国と呼ばれる国々が抱えている最大の問題が、人口減少問題と言われて久しくありませんが、これは家名を残すと言った昔の問題などではなく、あらゆる動物のDNAに組み込まれた地球の未来を暗示する現象のように思えてなりません。今日の箇所で登場するサドカイ派の人々が言いたいのは、そんな遠い将来のことでなくて、イエスの言っている復活などを信じるなら、彼らの掟に反する面倒なことが起きるということです。
先ほどサドカイ派の人々は、モーセ5書を絶対視していたと言いましたが、モ-セ5書には復活の思想というものはありません。ですから、サドカイ派は復活を信じませんでした。これに対し、ファリサイ派は、復活を認めていました。しかし、その復活思想というのは、主イエスの教えとは異なっておりました。今日の箇所から少し前にある聖書の言葉ですが、ルカ17章20節ではファリサイ派の人が、「神の国は何時来るのか?」と主イエスに尋ねています。その答として、イエス様は、神の国は「ここにある」、「そこにある」と言えるものでないと答えています。この意味に於いて、ファリサイ派もサドカイ派も、神の国への受け止めというのは大差のないものであって、イエス様の教えを正しく受けとめていたとは到底言えないものだったのです。サドカイ派に限らずおおよその人々は、この世の枠組み(基準)に依らずに何かを考えたり、表現したりすることはできないと考えている。そう言えるのではないかと思います。
我ら現代のキリスト者たちも、現代の常識を基準として捉えれば「復活はあるのか?」と問われた時、自信を持って「有る」と答えることは、大変困難であると言えるでしょう。更には、「復活は有る」と考えていた者が、このサドカイ派の人の質問のように、レビラート婚を重ねた女性が神の国ではどの夫婦が永遠の夫婦であるのかと問われても、答えに窮する事は無理からぬものと思われます。このような難問に対して主イエスは、34章から36節の答えに依って、彼らに明快な回答を与えておられるのです。次の答えです。
「イエスは言われた。『この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。』」(ルカ20:34-36)
ここでイエス様が教えているのは、復活はあるが復活後のことはこの世のあり方とは全く違うのだ、ということです。復活というのは事実です。その証しとしてイエスは復活されました。私達もキリストと同じように復活することが約束されています。私達はこれを信ずるのです。しかしそうは言っても、復活後にどうなるのかは私たちには分かりません。少なくとも主イエスが言われているように、この世の人が思う復活のあり方とは異なっているのです。復活後どうなるのかは、初代教会においても人々の関心の的だったようです。
コリントの教会においても復活のことが問題になっていたようです。一方の人々の間では復活などないと考えられていたようです。多くのノンクリスチャンたちは言います。
「聖書の教えはとても素晴らしい。それだけならば、納得もできるし、受け入れることができる。でも、イエス・キリストが自分の罪のために十字架にかかったということや、三日目に復活されたなどの話はどうしても信じられない。受け入れられない。」
キリスト教信仰を求める人たちの中で、イエスの十字架、或いはイエス復活のお教えが、信仰に於ける躓きになっていることが多くあるようです。使徒パウロはこのイエス・キリストの十字架と復活の信仰について、コリントの信徒への手紙の一の1章18節で次のように語っています。 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(第1コリント書1:18)
この言葉です。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死なれたこと。三日目に復活されたこと。それは愚かなことのように思えますが、しかし、信じる者にとっては神様の力である。そのようにパウロは語っているのです。十字架も復活も、普通に科学を信じるように考えるならば、信じるに値しない愚かなことのように思えます。それは今、主の十字架と復活を信じるように変えられた私たちも、実はキリスト信仰の証言者となる前は、そうではなかったではなかったと言えませんか?
しかし、神様の救いの御計画、つまり私たちを罪から救う御計画はイエス様が十字架にかかって、私たちの罪の身代わりのために死なれ、三日目に復活されるという、このような形で行われた事を聖書は示しています。
さて、今日これまでお話しましたように、私たちは人間の力、考え、思いというものが、この世界に於ける全ての事と考えてしまいます。しかし、そんな私たちの思いに対する聖書の証言は、その全てを超えて働かれる神の力があることを教えます。私たちの力、考え、思い、といったものを遥かに超えた神様がおられ、その神を認め、信じ、受け入れて行く時に、神がなされた救いの御業、十字架と復活を信じ、受け入れて行くことができるように、私たちは変えられるのです。どうぞ、神を信じる信仰へと、そして十字架と復活を信じる信仰へと導かれる人々が、これからの世界に於いても、更に生まれて来ることを祈りつつ、主の救いのみ言葉を宣べ伝えて行く事を心から願うものです。お祈りいたします。アーメン
説教題:「洗礼者ヨハネ」 2025.10.19
聖書:ルカによる福音書3章1節~14節
今日与えられたルカによる福音書では、2章の主イエスの誕生の物語に先立ち、1章に洗礼者ヨハネについて多くのページを割いて語っています。福音書記者ルカは、主イエスの誕生物語の前に多くのページを割いてこの洗礼者ヨハネの誕生物語を書き記しています。
これに関連して、旧約聖書の最後の書でありますマラキ書の3:1には、こう書かれています。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道をそなえる。あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。あなた たちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」。
また、イザヤ書40:3には、「呼びかける声がある。主のために、荒
れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒地に広い道を通せ」とあります。これらの預言は、洗礼者ヨハネの出現によって実現されたとものであると、代々の信徒が考えてきました。
ルカ福音書には、ヨハネの母エリサベト(エリザベス)が主イエス
の母マリアと親類であったことや、神さまの不思議な御業によって身ごもった二人の女性たちが互いの身に起こったことを報告し、互いに励まし喜び合ったことが書かれています。そして、エリサベトのもとを訪れたマリアの挨拶を聞いた時、エリサベトの胎内の子がおどったとも書いています。
神さまの約束通りに預言が成就されていく様子を、ルカはこと細かに記しているのですが、成人した洗礼者ヨハネと主イエスの結びつきに関しては、ほんの僅かなことしか書いてはおりません。ヨハネが荒れ野で悔い改めの洗礼を宣べ伝え、そこには国中からおびただしい群集が集まり、ヨハネから洗礼を受けたことを記しています。他の3つの福音書も同様の出来事を伝えています。多くの民衆が、《もしかしたらヨハネはメシアではないか》と心の中で考えていたことも伝えます(3:15;続く箇所)。洗礼者ヨハネは民衆のそのような考えを否定し、自分の後に来られるお方について力強い証をし、人々にたくさんの勧めをして福音を伝えています。
しかし、ルカの記事では、主イエスの洗礼の出来事の前に、ヨハネが領主ヘロデによって投獄された記事を伝えていますので、他の福音書を読まない人がルカの記事だけ見ると、主イエスが洗礼を受けたとき、二人が出会ったのかどうかがはっきりと分かりません。聖書研究者の多くは、このことに関して次のように推測します。
「おそらくルカは、救い主の出現の前に洗礼者ヨハネを歴史の表舞台から取り去ることによって、ここからまったく新しい働きが始まったことを強調したかったのではないのか。旧約時代の最後の預言者、救い主のために道を備え、救い主を指し示す者として遣わされたヨハネによって、一つの時期は終わった。そして、
彼が指し示した救い主、イエス・キリストの働きによって新しい時期が始まった。」
ルカはこのような意図をもって福音書を書き進めたのではないかと思われるのです。
この新しい時期の到来に備えて、私たちは洗礼者ヨハネの言葉に耳を傾けなければなりません。ヨハネのメッセージの中心は「悔い改め」です。一般的に「悔い改め」と聞くと、私たちは何か悪いことした時の反省の気持ちや、同じ過ちを二度と犯しませんという気持ちをこめて「悔い改め」という言葉を用いているのではないでしょうか。しかし、ヨハネが言っている悔い改めには、そのような私たちの思いを超えた意味が含まれております。それは、私たちが「悪かった」と感じて悔い改めるということが、単にこの世的な問題だけを取り上げているのではないからです。
さて、ルカが洗礼者ヨハネの誕生物語を仔細に記した一つの理由には、彼の出生が主イエスと同様に、私たちの世界で実際に起こったことであることをきちんと伝える
という目的がありました。ローマの皇帝がティベリウスであり、彼の治世の第15年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤ、その兄弟
フィリポはイトラヤとトラコン、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファが大祭司であったとき・・・などなど。良くぞここまでと思うほど政治的・宗教的権力者の名を上げ連ねています。ヨハネの働きを性格づけるために用いられたイザヤ書の預言は、マタイやマルコと比べるとやや長めに引用されており、最後の《人は皆、神の救いを仰ぎ見る》ということが強調されています。つまり、主イエスの出現は、単にユダヤ人の救いのためだけではなくて、「肉なる者」、つまりすべての人間の救いのためにほかならない、ということをルカは強調したかったのではないでしょうか。
洗礼者ヨハネは、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。彼のいう悔い改めとは、神さまとの関わりにおける人間の心からの方向転換です。それは、自分が中心にいる生き方から神さまへと向かって生きることへの転換です。この回心した生き方を考える上で重要なのは、「罪」について考えることが不可欠です。私たちが罪と考える場合、法に背くような犯罪や何か後ろめたい気持ちになるようなことがまず思い浮かんでくると思います。また、十戒をはじめとした戒めや主イエスの教えなども思い起こされてくるでしょう。さらに考えてみましょう。
私がキリストに導かれたのはクリスチャン作家、三浦綾子さんの小説を読んで共感したからに他なりません。彼女の作品に登場する人物は、主人公はめったにお目にかからないような正しい人であり、その主人公に敵対するのは正に悪の塊とも思えるような人物であります。彼女の書く小説も「勧善懲悪」の世界であるといって宜しいかと思われます。
しかし、聖書に登場する人物は、完全な悪だけ、あるいは正義だけ人間ではなく、両面を備えた人間であります。人類の祖先であるアダムやエバは罪を犯してエデンの園を追い出され、イスラエル王国を繁栄に導いたダビデ王は、家来の妻を奪い取った罪を、生涯悩み抜いた人でありました。聖書は何故そのような悪を背負った人間を、英雄として描くのでしょうか?
実はこれが聖書の言う「罪」の表現です。ギリシア語では「ハマルティア」という言葉が「罪」として用いられていますが、これは本来「的を外れる」という意味の言葉です。矢が的に向かないで、とんでもないところに飛んでゆくという意味です。つまり、私たちは本来向かうべき存在である神さまに向かわないで、別なところに向かってしまっている状態が罪にある状態なのです。神さまの目から見れば、どんな人間も罪を犯す存在であり、完全に正義だけ、あるいは罪だけの人間はいないということなのであります。
神さまが人間をお創りになった理由は、ご自分と応答する存在として私たちを愛し祝福するためでした。けれども、人間はすぐに自らが神のようになりたいという誘惑に負けてしまいました。本来は神さまに向かって生きるべきであったのに、自分本位という欲に駆られ、神に背き、神から離れ、的外れな生き方をしてしまう・・・。だからこそ、私たちには「悔い改めよ」という洗礼者ヨハネの言葉が必要なのです。ヨハネの問いかけは、「あなたは今どこを向いて生きているのか」、というものなのです。
いつの時代にも悪は満ち満ちていて、悪への誘惑に溢れています。しかし、そのような時代のただ中に救い主はお生まれになったのです。混沌の世界といわれる現代だからこそ、ヨハネの叫び《悔い改めよ》が、どのようなときもキリストが居られる事を疑うな、という祈りに聞こえてきます。
「悔い改めにふさわしい実」を結ぶためにはどうしたら善いのか、と群衆がヨハネに問いかけ、ヨハネはその答を11節から14節でしています。これは、神さまが現在の私たちに求めているものです。
私たちは今まで自己中心的な生活をして来て、神様の恵みを受け取ることばかり望んできた。その生き方を改め、頂いた恵みを、まだ受け取っていない人たちにも分け与えなさい、ということなのです。私たちが神さまから受け取っている恵みとは、キリストの救いです。その神の愛を他の者たちと分け合って生きなさい。これが、今日のヨハネのメッセージであります。
ヨハネが私たちに伝えたこと。それは、救われる価値のないような私たちを一方的に愛し、哀れんで下さり、イエス・キリストを通して救い出して下さる、という神の福音です。この愛と哀れみによって喜び生かされ、主のご栄光のために豊かに実を結んで生きたいと願うものであります。 アーメン
主日説教: 「貧しさへの不安」 2025.10.12
ルカによる福音書 第12章13~31節
ルカ福音書12章13節から読んで参りたいと思います。
新共同訳聖書の場合には、初行の箇所に「愚かな金持ちのたとえ」というタイトルが附されています。これはその前の場面に書かれているように群衆の中にいた者が、主イエスに対して遺産争いの調停を願った時に、その答として語られた金持ちに関する譬え話であることを示します。ルカ福音書は、この話に見られるように、群衆の中の誰かがイエスに願い事をし、それに対してイエスが自分の思想を語るという形式で、物語りが展開されて行くという形式が特徴的です。例えば10章25節では、律法の専門家が「永遠の命」ということについてイエスに問いを発し、主がそれに答える。或いは11章45節には、ファリサイ派に対するイエスの非難について、これを聞き咎めた律法の専門家の反論に対して、イエスがこれを諭す、といった形式が見られます。
本日の話もこのパターンに従いまして、「遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 とせがむ群衆の一人に対して主イエスは、ある愚かな金持ちの喩えを持ち出して、生命の安全は財産によって保障されることはないことを教えております。
現代に於きましては、「遺産争い」がもつれた場合、最後は法廷に持ち出されるケースが多いようです。しかし、イエスの時代には、それはラビと呼ばれる律法の教師によって調停されるのが普通だったようです。だから、人々はこの問題を一部の人々からラビと呼ばれていたイエス様の前に持ち出したのでした。しかし、イエスはこの「遺産争い」の調停を膠もなく断り、問題をもう少し深い次元で考えるように要求しました。つまり、遺産の分配をどうするかという「所有」の問題から、貪欲を避けるという「生き方」の問題へと人々の視線を向け変えたのです。15節に、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と記されている通りです。貪欲は、あらゆる悪の根元である。この格言に関しては古来より、優れた宗教者や思想家は例外なく気づいていました。旧約聖書の場合には、「十戒」の書の10番目の戒めで、「欲してはならない」という言葉によって締め括くられております。ということは、主イエスがこの思想を継承していることに疑いの余地はないと思われます。
「物を持っていること」は、わたし達の生活にとって確かにある程度必要なことです。イエスも「主の祈り」の中で、「我らの日用の糧を今日も与え給え」と祈ることを教えました。しかし、出エジプト記16章で示されておりますように、天から降ったマナを欲張って拾い集めた分は腐ってしまいました。そのように、必要以上に所有を増やそうとする貪欲というものは、聖書は、決して真の幸福への道だとは言っておりません。正にそれは、コヘレトの言葉の5章9-11節に次のように書かれている言葉が教訓的です(旧約聖書1039ページ)。
「●銀を愛する者は銀に飽くことなく、富を愛する者は収益に満足しない。これまた空しいことだ。●財産が増せば、それを食らう者も増す。●持ち主は眺めているばかりで、何の得もない。●働く者の眠りは快い。●満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。」(コヘレト5:9~11)
旧約の時代より、人間の欲望というのは限りがなく、どんなに多くの富を得ても満足することがないことを語っています。満腹をした時でさえ、豊かに眠ることが出来ないのだと諭します。
貪欲に「物を持つこと」を追求しても、決して真の幸福には到達できない。これは真理である事が確信出来ます。イエスの譬話では、この真理が少し違った視点に於いて、次のように明確に示されています。
つまりそれは、19節で「これから先何年も生きていくだけの蓄えができた」と言って安心しているその本人に対して、20節では、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と言って教えている神の言葉です。
私たちの命は、自分の思う通りに扱うことはできません。命は、神から「与えられた」ものだからです。ある時、命は私たちに与えられますが、神の定めたその時が来ると再び神によって取り去られてしまいます。自分では、長くも短くもすることができない命。その限られた時の間に自分だけの所有物を増やしたからとて、それが何になるでしょうか。
次の21節の言葉ですが、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」という言葉にそれが凝縮されています。それでは、「神の前に豊かになる」というのは、一体どんな事を意味しているのでしょうか? この事を考えてみたいと思います。
22節からは、主イエスの言葉によって、「神の前に豊かな人」とはどんな人であるのかという命題が示されます。これらの言葉の意味は、実は共観福音書であるマタイ福音書6章25節以下にある「山上の説教」として有名な一纏まりの教えの中で、殆ど同じ言葉を使って記されています。この教えの中心とされているのは、「思い悩むな」という教えです。
イエス様は、空の烏、野の花を例として用いて、思い悩みからの解放を告げておられます。ここでの「思い悩む」は、以前に使われていた口語訳聖書では「思いわずらう」と書かれています。患うとは、病気になることを言います。不安や恐れが心を支配する。将来の様々なことを思い悩む、心配になる。それがひどい場合には心の病になってしまうのです。
私の場合には、今から11年前に妻を亡くした時に、寂しさと不安の中で、今日の聖書が教えている「患い」の事実を体験しました。一旦この病に侵されてしまうと短時間で抜け出すことが困難なことを、この時につくづく思い知らされました。富里教会に遣わされる前の8年間という期間は、精神全体が思い患ってしまっていたように感じております。
世界有数の豊かな国に成長した日本社会では、多くの人々が心配されるのは、生活に於ける「貧しさに対する不安」よりも「健康に関する不安」なのではないでしょうか。病気に罹らないように、健康診断を受けたり、食べ物に気をつけたり、運動したり、という生活をしています。気の利いた健康器具などは、テレビ・ショッピングでまたたく間にヒット商品になる時代であると聞きました。
精神を患うという体験に加えて、健康への不安というものを私が感じたのは、無任所教師だった時期でした。この頃の私は、マンション管理という職に就いていましたが、その当時の作業中に、2メートル高の脚立の最上部から落下して腰椎骨折という怪我を負って、1年間のリハビリ治療を余儀なくされた時でした。奇跡的に怪我から復帰できた時、生まれて初めて健康である事のあり難さを痛感させられたものでした。しかし、この場合、私が注意を怠ったから怪我にあったのかと問われれば、言い訳をお許し頂けるなら、人間のDNAに組み込まれている不注意という「原罪」によって、思いもかけない怪我を負ったり、病気に掛かったりするように思えてなりません。どれほどに注意を払っても、完璧に健康を維持し、事故から逃れ得るのは困難とは言えないでしょうか?
今日の聖書箇所では、イエス様が12章24節で次のように教えております。
「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちでだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事でさえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。」(ルカ12:24)
これに続く28節では、「信仰の薄い者よ。」と言って、イエスは弟子たちに語り掛けます。ここに弟子たちの不信仰を嘆かれる主のお姿が見えます。信仰が薄いという言葉は信仰が全くないという事ではありません。そうではなくて、信仰が小さくなってしまう事を意味します。屡々、私たちも、「信仰が弱い者でとか、信仰が足らない者であるとか。」一見控えめに、そして言い訳のように自分の信仰は小さいと言う場合があります。しかし、この箇所でイエス様は、弟子たちをご覧になって、あなたがたの信仰が小さいのだと言われているのです。信仰とは、主への信頼の中に生きることです。主がしてくださると信じることです。しかし、その信仰がまるで風船がしぼむように、次第に小さくなってしまった時に、主に対する信頼が小さくなってしまいます。自分の側だけから見てしまうと、神様を小さく見積もってしまうのです。人間の常識や考えだけを中心にした時に、神様への信頼が小さくなるのであります。
神様が一体何を用意されているのか、どのような御業を起こされるのかを、私たち人間は計り知ることができません。神様の大きさを知らされた時に、私たちの信仰は大きく成長できるのです。神への大きな信頼に生きるその時、私たちは思い患いから解き放たれることになるのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16)
ヨハネ福音書3章16節では、そのように私たちに教えております。すべての律法の中心は、「心をつくして神を愛すること」と、「自分のように隣人を愛すること」の二つに尽きると言って、わたし達に「互いに愛し合う」ことを、独り子イエスは教えております。主イエスに従って愛の中に生きること以外に、「神の前に豊かになる」ための道というものが存在するでしょうか。神から与えられた命のある限り愛し続ける。これこそが、私たちが神の前に豊かになる道であると言えるでしょう。
今日のルカ福音書では、少し前の箇所の10章25節からの、皆様良くご承知の「善いサマリア人の喩え」という教えによってイエスは語っております。この内容を要約すると、次のような内容になるかと思います。
何をしたら永遠の命を受け継ぐことが出来るかをイエス様に問い、更に律法が教える「わたしの隣人」とは誰なのかを問う専門家に対して、主は次の譬え話をします。
「ある人が道の途中で追いはぎに襲われ、半殺しのままその場に置き去りにされた。そこへ祭司とレビ人が通りかかりるが、死人のような人には触れるなという 律法の掟に従い、別の道を行く。その後、通りかかったサマリア人は憐れに思い、傷の介抱をして、宿屋に連れて行き、宿屋の主人に金を渡して完全に治るまで介抱してくれと頼む。さて、あなたはこの3人の中で誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うのか。」
イエスは、この譬え話が教えている「隣人とは誰なのか」を律法の専門家に問います。この問いに対し「その人を助けた人です。」と彼が答えると、イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい。」と命令しています。主イエスは、内臓がキリキリ痛むほど相手の思いに共感せよ、そして相手の思いに立て、と言われるのです。想像力を働かし、積極的に相手を知り、理解し、自らの思いを捨てて、相手の立場になってみろ、そこでやっと内臓がキリキリ痛みだすだろう。あなたはいてもたってもいられなくなる。これが愛するという事なのだよ。イエス様はこのように教えているのです。自分は何にも脅かされない、何も不安のない場所にいて、可哀想な気の毒な人をみて、助けるのではない。この「善きサマリヤ人の教え」のように、今まで隣人ではあり得なかった人が隣人になっていくこと、愛することこそが神の前で豊かになるという事です。 アーメン