下記に、7月第3週から8月第4週の冨里教会礼拝説教の録音と説教原稿を載せました。
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(7月20日の説教)
(7月27日の説教)
(8月3日の説教)
(8月10日の説教)
(8月17日の説教)
(8月24日の説教)
説教題: 「あなたを躓かせるもの」 2025年8月24日
マルコ福音書9章42~50節
ひと月ほど前の説教で「信仰につまづく」というテーマで主のみ言葉をお伝えいたしましたが、本日の「躓かせる」という言葉は、神から離反させることを意味致しします。この場合は「罪への誘惑」という形もあれば、「迫害」という形もあります。いずれにしても本日の聖書の例話の時代には、イエスの弟子である限り、多かれ少なかれ直面せざるを得ない危険を伴いました。これはある意味で、現代のキリスト者にとっても同じ誘惑があると言えるかと思います。
神は人が受ける誘惑や迫害という躓きは我がこととして受け止めて下さいます。その人が誘惑や迫害を受けることにより神から離れてしまうならば、それは神にとって大変な危険だと言えます。父なる神と同様に、主イエスにとってもそれは同じことです。そこで主は、激しい言葉をもって9章42節のように語ります。
「私を信じるこれらの小さな者の一人を躓かせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ 込まれてしまう方がはるかによい」(マルコ9:42)。
人々に与えられる親切を我が事のように考える神は、人々が受ける誘惑や迫害も我が事として考えられます。神は43節以降で、そのように捉える人たちに語りかけています。それは「躓かせられる」のでなく自分で「躓いてしまう人」、いわば自分で自分自身を躓かせる人について語っている言葉です。
自分を躓かせるものが自分の手であったり、足であったり、目であったりするのならば、「その手でも足でも捨てた方が良い。」主イエスは、そのように戒めています。
この教えの場合に「私を信じるこれらの小さな者の一人を躓かせる者」と言うのは、ここにいる私たち一人一人の事と言えます。私たちは皆、迫害や誘惑に曝される時、「小さな者」に変えられてしまいます。小さな者、弱いものとなって、主イエスの後を付いて行く事に躓いてしまうのです。しかし、私たち「主イエスを信じる小さな者」が躓いて、主から離れてしまうことを主イエスは、心から悲しまれるのであります。
さて、今日のテキストの中で44節と46節という2つの節が欠けている事に気付かれた方がいらしたでしょうか?(文中 ♰のマークが付された節の43と45です)
欠けているテキストは、48節と同じ「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」という言葉なのです。ところが、古い写本にはそれが見られません。
恐らく本文を書き写した後代の人が、後になって付け加えたものと思われます。そのため、日本基督教団の多くの教会で使用している新共同訳聖書では、本文には入れておりません。
後代の人たちが付け加えたと言うのは教育的な配慮でしょうか? 或いは脅かして罪から離れさせるためか? いずれにしても「地獄の部分」に対する思いを強調しようとしたものと考えられます。つまりそれは、「地獄絵図」のようなものと同じ発想だと言えるかも知れません。しかしこれは、地獄を見せて脅しによって行いを改めさせようという類の話などではありません。これらの言葉の根底に流れているのは、キリストを信じて従い始めた者たちに対する、「神の熱い想い」である。そのように言う事が出来ます。つまり、
「絶対にその人を失いたくない、だから躓いて欲しくない、離れて行って欲しくない、信仰を失って欲しくない」
こんな「神の愛と熱情」がこれらの言葉の根底には存在します。
ここで大事な事は、先に述べた外部からの誘惑とケースと同じように、
「もし片方の手があなたを躓かせるなら、切り捨ててしまいなさい」(9:43)この言葉にも神の御旨が表われております。いかなるものによっても神から引き離されてしまうようなことがあって欲しくない。なぜならばそれは永遠の救いに関わる言葉だからなのです。
続いては、43節の「地獄」という言葉によって聖書は、何を教えようとするのでしょうか。私が無料で配っていたギデオン協会の聖書の場合には、ここを言語で「ゲヘナ」と書いておりましたが、この言葉が意味することは、私たちのこの世界はどんな意味においても「地獄」ではないという事を言っています。どんなに悲惨なことがあろうとも、悲しみと苦しみに満ちていようとも、そこは「地獄」ではないのであります。神から見捨てられてしまった世界ではないのです。因みに「ゲヘナ」は現代ギリシア語のゲヘンナが英語化された言葉で、その大元の言葉はヘブル語のゲーヒンノーム(גי(א)-הינום):ゴミ捨て場)です。英語の場合は、これをヘル(Hell)と言っております。
以上を纏めますと、どんなに悲しみと悩みに満ちた人生であろうと、私たちの人生はいかなる意味においても「地獄」ではない、神から見捨てられた人生ではない、と語っております。考えて見れば、この主イエスの言葉は、迫害の時代の教会にとってはどれほど大きな慰めであったことでしょうか!
現実にキリストの弟子であり続けるために、片手や片足を切り落とされたり、目をえぐりだされたりする。そんなことがあったのかも知れません。
その時に「一つの目になっても神の国に入る方がよい」という主の言葉は、彼らにどれほど力強く響いたことでしょうか。それは迫害の時代の話だけではありません。私たちの場合でも実際には、人生の途上において様々なものを失いながらも生きて行こうとするのではないでしょうか。主イエスの弟子として主に付いて行くために私たちは、それぞれ、少なからず色々な物を失って来たとは言えないでしょうか? しかし、その時に「失った物を嘆き悲しみながら生きて行く」のか、それとも「少なくとも、それによって躓かされることはなくなった。神様から引き離されることはなくなった」と思いながら、全き救いへと向かって歩いて行くのか。この二つの選択の中には大きな違いがある筈です。神様から引き離されることがなければ! 神が与えてくださる永遠の救いへと向かっているならば! 真に価値あるものは、何も失ってなどいない。正に主イエスのこれらの過激な言葉がしているように。そのように言うことが出来るのです。
さて、今日のお話の最後に、主イエスが「神の国に入る」ためには、弟子としての歩みがどうあるべきかが語られている49節以下を見ておきたいと思います。
「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(9:49)
このみ言葉の中で、「火で塩味を付けられる」と言うのは、どんな意味を持つのでしょうか。世の学者たちは色々な注解書において、その意味として様々な説を唱えていますが、それらの中で、私は次の説を採りたいと思います。
「イエス・キリストの十字架と復活の恵みがどんなにすばらしいものかが、火のような試練を通して知らされる。そこで、キリストの救いが自分になくてはならない塩味だと判かるようにされて、じぶんの内に味付けられる。だから、もしあなたがこの塩味を失うならば、つまり、主イエスの十字架と復活の恵みの味を失ってしまうならば、あなたは一番大事なものを失ってしまうことになる。」
このように説明される解釈です。少し前の箇所ですが、9章の34節のテキストには、弟子たちが仲間内で「だれが一番偉いか」と議論し、争いあっていた、とあります。自分自身の内に「十字架と復活によって神の国に入ることを赦されるという恵み」、つまりそんな「塩」の如き大切な物をしっかりと持っている人は、そのような愚かな争いから解放されています。周りの兄弟を躓かせてしまような愚かな争いから解放され、イエス様の心を自分の心と同じくすることが出来ます。主イエスが小さな一人、一人である私たちをどんなに愛して、神の国に入ることを望んでおられたでしょうか。
そんな主の思いを、自分の思いとして、「互いに平和に過ごすようにされる」。それが弟子としての道であることを、今日の聖書の言葉によって主は語られました。
主イエスは、ご自分が十字架に向かわれる道において、私たちあなたにつき従う者が、真に弟子として相応しく歩むことを切に願われ、本日の教えを与えて下さいました。この世界は、神がキリストを遣わされた世界です。神が罪の贖いの十字架を打ち立てられた世界です。神が罪の赦しを宣言し、御自身との交わりへと招いて下さっている世界です。私たちの人生は、神が赦しを与え、神との交わりへと招いて下さっている人生です。決して、神に見捨てられた人生などではありません。であればこそ、この世界の中において今も教会が存在していて、今も福音が宣べ伝えられております。そんな世界で、私たちもまた神との交わりへと招かれ、こうして信仰の歩みを始めております。こうして既に本当の命への道を歩み始めていることを自覚しつつ、今週も豊かな時を刻みつつ、歩んで行こうではありませんか。
それでは、共に祈りましょう。 アーメン
説教題: 「傲慢な者たちよ」 2025年8月17日
聖書: マルコによる福音書 12章1~12節
本日のマルコ福音書12章1節からの例話というのは、一見すると分かりにくそうな話であるように思えるのですが、他の例話の場合に説明されている話と比較しながら考えてみると、実は直感的に理解できそうな話なのです。
12章1節に、「イエスはたとえで彼らに話し始められた」とあります。この場合の「彼ら」とは誰のことを言うのでしょうか? これは直前の11章27-33節で「権威についての問答」と表題がある箇所に、イエスと 祭司長・律法学者・長老たち との間に論争があったという話が書かれていて、そして、その後にこの譬えが登場するので、明らかにここ記述の「彼ら」と言うは、祭司長・律法学者・長老たちのことを言っているものと推測出来るでしょう。これに続けて、「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てた」という言葉が続きます。ぶどう園を作った「ある人」は神様のことで、「ぶどう園」はイスラエルの事であり、農夫とは「彼ら」と表現されているイエス様の対話相手の「祭司長・律法学者・長老たち」を言っているものと推察する事ができます。
この記述に続く2節にある「僕」とは預言者を指します。最後に、6節に出て来る「息子」と言う人は、イエス・キリストのことと捉えて良いでしょう。
今ご説明した1節には、ぶどう園がどのようにして作られたかの説明がありますが、当時のユダヤの場合に、ここで言われている形式が一般的なぶどう園 の作り方のようです。旧約のイザヤ書5章1節からの記述を見てますと、「ぶどう畑の歌」という題で、ぶどう畑について詳しく紹介する話が載っています。
(旧約聖書イザヤ書5章1~6節(1067ページ)を参照してください)
このイザヤ書の記述は、神がイスラエル民族を選んでご自分のぶどう畑として、そこに良いぶどうが実ることを期待していたのに、 実ったのは酸っぱいぶどうだけだった事。そして、それと同様に神の期待を裏切った民族には神の裁きが下る、ということを教えるものです。今日の聖書箇所では、ぶどう園の話をイエス様が語った時に、恐らくは、このイザヤ書5章を念頭に置いていただろうと推測できます。今日の譬え話の場合は、この後の話の展開がイザヤ書とは違っていて、その重点 はイザヤのように「良い実を結ばなかったイスラエル民族には神の裁きが下る」という事より、むしろ、祭司長・律法学者・長老たちに対する批判だと思われます。 イエス様は、これに続けて次のように話されています。
「ぶどう園を作った地主は、農夫たちに貸して旅に出た。地主が収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫達は期待に反して、僕を捕まえて袋だたきにした。その後も僕たちに暴行を加え、あるいは殺した。」(マルコ12章2~5節の要約)
これは明らかに反逆行為だと言えます。地主には愛する息子がいました。地主は「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と考えて、最後にその息子を遣わしました。すると、農夫たちは、息子がいなければ財産は我々のものになると考えて息子を殺してしまったのです。
最後の12節に「イエスが自分たちに当てつけてこの譬えを話されたと気づいた」と書かれている通り、話をそこまで聞いていた農夫たちは、「無礼なやつ」と怒ります。彼らは、イエスが自分たちを暴力的なひどい農夫に喩えられたことに気付いて怒り心頭に達したのです。ここで、一体イエス様はどうして彼らをあの「ひどい農夫たち」になぞらえたかを考えて見たいと思います。
一体、彼らはそんなに乱暴で横暴な行動をしたのでしょうか? いいえ! 彼らの場合には、全くそのような事実は見られません。彼らは、律法の一点一画に至るまできちんと守っていて、それを人にも教える立場にありました。当時、多くの者が、彼らを「正しい人」と判断していて、彼らもまた、自分たちは正しいと誇っていた人たちでした。しかしイエス様は、そのように正しいと思われていた彼らが持つ特権意識。ここにこそ最大の問題があることを見抜いていたのです。農夫たちが地主に取って代わろうとした傲慢さというのは、先ほどお読みしたイザヤ書5章の場合の、神の期待を裏切ったイスラエルの民と同様のものだと言う事が出来るのです。
農夫たち、即ち、彼ら祭司長や律法学者たちは、自分たちを律法を守っている「正義」の者、律法を教える「正しさ」を知る者である、と考えています。しかし実は、彼らは人間が決めた条文に捕らわれているだけであって、「本当の 神の掟をないがしろに」して、人を裁いているだけだ、とイエス様は言われるのです。イエスはこの矛盾点を見抜いていました。
正しさや正義だけに基準を置いてしまうと、そこに排除の論理というものが生じて来ます。神から選ばれた民、すなわち選民としての誇りを持ち、自分たち以外の全ての人を異邦人として蔑むイスラエルの人々も、彼らと同様に、他者を排除しようとする裁き人であったと言う事が出来るのではないでしょうか? それは取りも直さず、人間の意識の根底に潜む傲慢さであるとも言えるのではないでしょうか?
正義や正しさにより追いつめられることによって、苦しむ人々が作られます。神は正しさや正義を基準にせず、むしろそのような概念を除き、愛を基準にしました。イエス様は神の御心を受け、誰をも隔てなく愛したお方であります。それがイエス様の生き方です。
「愛」。主イエスにとっては、それが全てに優先し、それに超える掟はありませんでした。イエス様は生涯この愛に生き、そのためにご自分の命を捧げられたのであります。
今日与えられた聖書、マルコ福音書の12章10節から次のように語られています。
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える。」 (マルコ12:10~11)
実は、これは旧約聖書の詩篇118編22~23節から引用された言葉です。こんな石は要らない、と捨てられた石、そんな石を神は土台の石とされた。これは、十字架に死なれたイエス・キリストによって示された行いであり、それはすなわち愛の行為です。神がなされた、その愛の行為は、私たちの目には不思議に見えると言うことです。確かに、神の愛とは、私たちの目から見れば理解を超えたものです。信仰の目を持ってでしか、その行為は理解できないものだと言えるのかも知れません。しかし、その神の愛を、私たちが真の愛として受けとめるとき、私たちの目は真実に開かれるのであります。
イエスの生き方こそが神が愛された生き方であると信じて、我々は「正義」と「正しさ」の中にあるこの世の傲慢さを見抜き、そしてどのような生き方が創り主である神に対して喜ばれることなのかを共に考え、自らの姿勢を正しながら、愛に生きる道を歩み通したいと願うものであります。
それでは一言、お祈りを捧げましょう。 アーメン
説教題: 「平和を打ち立てる」 2025年8月10日
聖書: イザヤ書 2:1~5
コロサイ書 1:19~23
今週の金曜8月15日は世界平和を願う日です。年を重ねる毎に、今日が終戦の日であることを知らない若者が増えていると聞きました。その思いを巡らしつつ、今日のメッセージは平和に関連する聖句を含む聖書箇所から頂戴したいと考えました。
只今お読みいただいた旧約聖書のみ言葉は、預言者イザヤによって書かれたとされるものです。その2章は、同じ旧約のミカ書4章1節から5節の記述とそっくりの内容です。どちらがどちらを真似たのかは分りませんが、これらのメッセージが当時の預言者たちに共通なものであったという事は間違いなく言えそうです。一応、そのミカ書の方も確認しておきたいと思います。
イザヤ書に戻ると、1章1節に「アモツの子イザヤが、」という書き始めがあります。これは2章から12章までの文章の表題として書かれた記述であって、これらが一つの巻物だったことを示す記述だと言われています。1章1節の記述と比べて見ると4人の王の名前が記されていることを除けば、2つの箇所の記述内容は殆ど同じという事がわかります。
2章2節でイザヤは語っています。「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。」主の神殿の山は、シオンの山です。3節にもシオンの名が記されていますが 、「シオン」というのは、かつてダビデ王の要塞が立てられていたエルサレムの東に位置する丘です。ここは、イスラエルの民の生活の中心となった地でありまして、やがてエルサレムを意味する同義語として使われるようになりました。そのシオンの山が、山々の頭となる、即ち世界の中心となることをイザヤは預言しています。世界中の人々が、主の教えを求めてやってくる場所になることを、「国々は大河のようにそこに向かい、」と表現します。主の神殿の山、シオンを最も高い山と表現することにより、ここが天と地を結ぶ場所であることを示します。こうして続く3節の言葉へと繋がって参ります。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」。(2:3)
この記述の中の「主の山」というのはシオン、「ヤコブの家」とはイスラエルを意味する別称です。続いて書かれている繰り返し表現の中で、「主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。」と言います。「主の教え」と訳されている部分のヘブル語原語に言う「トーラー」なる言葉は「律法」を意味するものですが、ここでは「真理・生き方」の意味で捉えることが宜しいかと思います。そして、この言葉というのは次の4節の教えを含んでいると考えられます。
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(2:4)
これらの記述に於いて、2番目の段落の聖句「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。」というのは、ニューヨークにある国連ビルの礎石に記されている言葉です。また、ヨルダンからイスラエルへ行く道の途中に掛かる橋の脇に建てられた記念碑にも、これと同じ言葉が書かれていると聞いています。神の啓示というものは、全ての人々に歩むべき道を示します。
「御言葉を学ぶ人は、もはや戦うことを学ばず、剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とし、平和で建設的な働きに従事する。」
主はこのように言っています。
旧約聖書は、預言者イザヤの教えを通して以上のように、「神に従って平和を打ち立てよ。」、と語るのですが、預言者が語り、神がどんなに戦うことの無意味さを示そうとも、相も変わらず世界から戦の音は耐えることがないのが現実です。そこで私たちは、諦めることなくさらに問い続いて行かねばならないのです。何故、戦争がなくならないのか。
新約聖書に於いては、そのことの一端の理由を私たちに示しています。今日の新約聖書の方の記述ですが、コロサイ書1章20節から語られた言葉に依りますと、御子イエスは十字架の贖いによって平和を打ち立て私たちを神と和解させた。神から離れるという罪を犯していた私たちを、ご自身の血の贖いによって神の元に立ち戻らせたのだと書かれています。
「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中では神と敵対していました。」(1:21)
と21節に語られているように、私たちは神と敵対してしまう存在です。そのような私たちを踏みとどまらせて下さるのが神の福音であることを聖書は証しします。この神との和解による福音の元に私たちがとどまる時に、初めて世界に平和がもたらされることが聖書には示されております。
世界で唯一の被爆国である日本国民にとっての国是ともいうべきものが憲法第9条です。しかし、平和の世界に生きる我々と比べて、イザヤは戦いの世に生きていた人でありますから、果たして彼が非武装中立を宣言できたのでしょうか? あるいは、その精神だけを説いたのでしょうか? それとも、来るべき終末の世に実現するであろう平和を願っただけでありましょうか?
この答えを出すことは容易ではありません。恐らくは、イザヤの念頭には、これらの3つの思いの全てがあったのだろうと思われます。戦いの世にあっても、武器だけに頼らない生活をイザヤは説き、来るべき終末の到来による王国樹立という展望を持っていたに違いないと考える事が出来るのです。
平和を願う神の意思は、旧約聖書のみならず新約聖書の多くの箇所に示されています。今日お読みしているコロサイ書1章19~20節ばかりでなく、マタイによる福音書の5章9節にも「平和を実現する人は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」というイエス・キリストの言葉が書かれています。また同じマタイの26章52節には、「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」という御言葉も示されております。
聖書は、世界を創造された神、ヤハウェーの神と、その独り子イエス・キリストについて証しする書物です。この地上に生きる人間が従わねばならない掟や、生き方についてのあらゆることを、つぶさに記した書物であります。私たちキリスト者は、聖書の教えるところに従って生きることが、この世に生を受けた者として正しい生き方であるという教えを受けています。しかし、そのような私たちも、この世の利益を優先するあまり、神に従えないことがたびたびあります。信徒の模範たるべき教職者においても、常に神に従って生活しているなどと言える人は皆無であると言わざるを得ません。人間である以上は、神の御心を完全に理解し、全てを神に委ね、従うことの出来るものはいないということでありましょう。
このようなことを前提として考えて来ますと、先ほど取り上げた「平和の実現」という命題が、どうして未だに実現出来ないのかという理由がはっきりするのではないでしょうか。歴史を振り返って見るならば、自分はキリスト者であると自称する人々が、必ずしも神の御心に従って生きてきた訳でなく、無神論者やキリスト教から見て異教徒である人が正しかったという例は、沢山残されています。人間が罪を背負う存在であることを認め、私たち一人一人が罪人であることを改めない限り、この地上から争いごとは決して絶えることがなく、砲弾の音が完全に止むことはないと言えるでしょう。私たちが本当の平和を望むならば、「剣を鋤に打ち直せ」と命じた神の元に立ち帰り、神に赦しを請うしか方法はありません。イエス・キリストを信じ、その教えに従って、神の義を与えられ、本当の平和を述べ伝え続ける。これ以外に私たちが選ぶ道はありません。聖書は私たちに、そのような道を示して下さっている事を、今日改めて確認しておきたいと考えるものであります。
それでは一言、お祈りをお捧げ致しましょう。 アーメン
説教題:「子どもを祝福する」
聖書:マルコ福音書 10章13~16節
さて、今日の聖書を追って参りたいと思います。この聖書箇所は、子どもたちがイエス様のところに連れて来られて、イエス様の祝福を頂こうとしたら、そばにいた弟子たちがダメダメといって子どもを追い払おうとした、というお話です。この様子を見ていたイエス様が弟子たちを叱りつけ、子どもたちを自分の所に呼んで祝福されたというのが、話の結論です。マタイ福音書の19章には同じ内容の並行記事がありますけれども、殆ど今日のマルコの話と殆ど同じです。違っているのは、マルコ福音書では10章14節で、「イエス様が憤り」と書かれているのが、マタイ福音書の場合には単に「言われた」という表現がされるように、極端な表現を避けている点が印象的です。それは、マルコでの「憤り」という表現があまりにも人間的であるために、マタイに於いては敢えて別の表現を選んだという事かもしれません。私は個人的には、マルコの方がより人間的なイエス様を感じると言う理由で好ましい気がします。ここで使われている「憤る」という原語は、聖書ではここでしか使われていない言葉であるようです。「叱る」とか「怒る」という言葉ならば、「イエス様が悪霊を叱りつけた」とか、「風と波を叱りつけた」というような表現がマルコの文中で見られます。人間に対する表現の場合には一度だけ、「ペトロを叱った」という記述があるだけで、「憤り」という表現を使ったケースは、それほどに子どもたちに対する気持ちが強かった事を表しているものと思えます。
イエス様は今日の15節で、「そのような幼子の気持ちを持つものでなければ神の国に入ることは出来ない」と語っているのですが、この話を読むとき私たちは、もっと良い人間にならなければ天国には行けないんだと思ってしまいます。私たちはもっと聖書を読んで理解し、正しいことが分からないならば神の国に入れないのでしょうか? しかし色々と調べて見ると、どうも聖書が語る神の国にはいる条件というものは、そのような能力主義とは全く異なることであるかが分かって来ます。
15節の言葉は、実際にイエス様が語られた言葉だろうという結論が多くの研究者によって出されていて、同じ主張をしているアドルフ・シュラッターというドイツの神学者は、この文を次のように翻訳しています。
「子どものように神の支配を受け入れるのでなければ、誰もそこには入れないのである。」(10:15)
つまり彼は、神の国を受け入れるということは、神の支配を受け入れることであると言います。「子どものように」という表現が意味するのは、子どもが自分から進んで、自分の意志では行くことが出来ないように、神の国に入ることは自分の意志で出来ることではない。そんな意味です。誰が子どもたちをイエス様の元に連れて行ったのかは聖書に書れてはいませんが、子供たちを連れて来たのは聖霊の働きであると言っても良いでしょう。だから、私たちが神の国に入ることが出来るのは、聖霊の導きがあってのことである。そのように考えて良いでしょう。
イエス様は、弟子たちを叱りつけて子どもたちを自分の元に来させて、抱き上げて祝福されました。この記述の中に私たちは、イエス・キリストが示された弱い者に対する労わりの気持ちや愛を見出すのでありますが、現実の社会は、決して弱い者たちに対する労わりを持つ社会であるとは言えないものです。最近、目に余るのが、育児放棄などのネグレクトや家庭内暴力、あるいは高齢者に対する擁護放棄や虐待等々です。何年前になるでしょうか、大阪のマンションで親に置き去りにされた二人の兄弟の遺体が発見された事件、或いは東京の場合には111歳の最高齢とされていたお年寄りが、発見された時点で、その32年も前に亡くなっていたことが発覚したといった事件は、皆さんの記憶に強く残っているのではありませんか。こんな事が、日本に於いても頻繁に起きるようになってしまったことの原因は、最近よく言われるような、人々が個人主義になり、他者のことを顧みなくなった事にあるように思えてなりません。
既に子どもたちが成人し、それぞれに結婚して孫が生まれる歳を迎えて、ようやっと私にも子どもという存在が頼もしく感じるようになり、未来を託せる思いが持てるようになりました。しかし、自分が若くて、我が子がまだ小さかった頃に、そんな思いを持てたのかと問われるなら、それとは全く逆で、子どもを煩わしく、疎ましく思ったというのが本音だった記憶があります。それには色々な原因はありますが、一口に言えば、自分自身が未熟で、自分のことしか考えられなかった事が大きな要因だったと思えます。それから年月を経た今になって、最近の人間はどうのこうのと批判できる立場ではありませんが、敢えて言わせていただけるなら、昨今の日本社会のシステムそのものが自分本位で利己主義なものに変わってきたように感じます。それが高じて他人よりも自分、親よりも自分、我が子よりも我が身が大切になってしまったのではないでしょうか。
このような現代を象徴するような話を、神学校の時の受けたフィールドワーク・ゼミという授業で聞いた記憶があります。因みにフィールドワーク・ゼミという授業は、牧師職にある人だけでなく、社会で活躍されているキリスト教関係の様々な分野から招いた方々から、神学生としての学びに役に立つ話を聴かせていただくという授業でした。4年間に渡る授業中には、様々な分野から、例えば精神科医、法律家や弁護士、学校・幼稚園教師、異端宗教研究者、セクシャル・マイノリティーの研究者、などの各界の専門家に講師を努めて頂きました。そんな中でのある日の講師は、皆さんの中にもご存知の方がおいでかと思いますが、坪井節子さんという女性弁護士さんでした。彼女はキリスト者であり、「カリヨン子どもセンター」という子どもの人権を守るための社会福祉法人の代表でもあります。そんな坪井さんが、神学生の私たちに話してくれたのは、親から虐待を受け続けたある15歳の少女のことでした。そのお話をここで少しご紹介しておきたいと思います。
その少女は、家庭内で慢性的なひどい虐待を受ける中に、非行を繰り返し、何度か補導される経験をしました。補導されるたびに警察に説得され、家に帰されたのですが、連れ戻される回数が重なるにつれて、少女への虐待行為は激しくなり、ついに二度と帰らない覚悟で家を飛び出したそうです。食べ物を買うためのお金もいくらも持たず、行く当てもない子どものことですから、何日も野宿を重ねるうちに住みついたのが、危険で一杯の東京の盛り場でした。やがて自分に優しく声をかけてくれた年上の男性の誘いに乗って転がり込んだのが、その男性の自宅でした。運の悪いことにその男性はやくざが商売だったそうです。その男の情婦にされ、悪という悪を覚え込まされました。彼女が逃げないように刺青を入れられ、覚醒剤を打たれて中毒患者となった少女は、しばらくして再び警察に補導されることになります。覚醒剤に汚染された少女は、措置入院ということで警察病院の覚醒剤中毒患者病棟に入れられます。そして、退院後は保護観察と言うことで坪井節子弁護士に任されることになります。初めて15歳の少女に接見した坪井さんが見たのは、15歳と言うにはあまりに疲れ果てた女性の姿だったそうです。覚醒剤に汚染された少女は、年齢よりも何十歳も歳をとって見えたと言います。まだ十代半ばの彼女が、人生にくたびれた中年の女性のようであったそうです。
覚醒剤中毒が癒されても、家庭から見放されて引き取り手のない少女は、坪井さんが代表を勤める「カリヨン子どもセンター」という福祉施設に収容されます。そこにおいても少女は、自分のことを一切語ろうとはしなかったそうです。大人の身勝手さの中で翻弄され、大人の言うことなど全く耳を貸そうとしなかった子どもの姿がそこにありました。少女が口を開く時に出る言葉は、ただ一言、「おとな嘘つき、おとなはズルイ」ということだけだったそうです。坪井弁護士がどんなに親身になって相談に乗ろうとしても、決して心を開こうとしなかった頑なな子どもの姿がそこにはあるだけでした。
そんな少女が、ある日、いやいやながら連れて行かれたのが特別擁護老人ホームでした。老人たちへのボランティア奉仕ということで、少女は連れ出されました。そして、その老人ホームで、少女が面倒を見た一人の老人から発せられた一言が、少女を変えてしまったそうです。
それは、
「あんたは本当に優しい子だねぇ。有難う。」
という一言でした。施設に帰った少女が坪井さんに話したことは、「自分は年寄りが大好きだ。」ということでした。そして何回かその施設に足を運ぶうちに、本来の自分を取り戻した彼女は、将来の仕事として老人介護の仕事につく事を決心しました。それまでは、学校に行っても教科書など開いたこともなかった少女が、自分から進んで介護の通信教育を受け始めました。そして坪井さんの勧めもあって、少女はキリスト教会に通い、数年後に洗礼を受けクリスチャンになったそうです。介護師の資格もとり、成人して子どもセンターを卒業した彼女は、現在介護職に就き、立派に自活していると言う話を伺いました。そんな成長した彼女から発せられた驚くべき言葉は、
「自分の親たちも、何かいたたまれない事情があったから、自分を虐待したのだろうと思う。いつか両親が自分の力で生きることが出来なくなった時には、私が面倒を見てあげたい。」
という自分を虐待し続けた両親に対する労りの気持ちだったそうです。彼女が少女の時から、ずっと面倒を見続けて来た坪井弁護士は、その時のことを、私たちの前で涙ながらに語ってくれました。私には、それは坪井さんが、彼女のことを本当に良かったと思って流した安堵の涙だったように感じられました。
本日の聖書に戻りましょう。イエス様が私たちに教えてくださっていること。それは、社会的弱者にたいする思いやりであり、愛であります。それは坪井弁護士が掲げている「人間の尊厳を守るための権利」と重なり合います。彼女の語る人権とは、
「生まれて来て良かったね。ありのままあなたが歩んで行けばいいんだよ。」
「あなたの人生は誰にも変わってあげられない。あなたが歩くんだよ。」
「ひとりぼっちじゃないんだよ。一緒に歩いてくれる人がいるんだよ。」
ということなのです。神は弱い者を必ずやお守り下さる。このことを信じ、ひたすら主の御跡を追いつつ、共に豊かな人生を歩もうではありませんか。
お祈りいたします。 アーメン
《7月27日の説教要旨》
説教題:「信仰につまずく時」
聖 書:マルコ福音書 9章42~49節
今日の聖書箇所、9章42節からの主イエスの言葉は、もしこれが私たちに向けて語られたものであったら、思わず身震ていしてしまうだろうほどの厳しいお言葉です。何故このような厳しいお言葉が語られるのでしょうか。先ずは、主イエスの足跡を辿ることによって言葉の背景を考えて見ることから始めたく存じます。
マルコ福音書に示された主イエスの活動の足跡は、大きく3つに分けることが出来ます。最初の1~8章までがガリラヤ湖の周辺地方おける活動を記しています。今日対象とした9章から10章の中間あたりまでが、パレスティナの北部から、ガリラヤ湖を経由してエルサレムへ向かう途上の出来事を示しています。続く11章から最後の16章までは、エルサレムにおける十字架の受難と復活の出来事です。このような流れから考えてみると、今日の箇所に書かれた厳しいお言葉は主イエスがガリラヤからエルサレムを目指している途中で、弟子たちに向かって語られた言葉であることを見逃すことができません。弟子たちの覚悟を迫るような、ずっしりと心に響くお言葉であります。
42節でイエスは次のように語ります。
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」(9:42)
ここに書かれた「小さな者」というのは主イエスの弟子たちの事です。「大きな石臼」とは手で廻すための臼ではなく、ロバに引かせるための大きな臼です。そんな大きな石を首に懸けられて海に投げ込まれてしまえば間違いなくその人は溺れて死んでしまう事でしょう。ユダヤ人は溺死してしまうことを事の他、忌み嫌ったと聞いておりますが、この喩えの場合はそんな感覚を持っているユダヤ人に対して、強烈な言葉として響いたことではないかと考えます。そんな厳しい表現を使って弟子たちは、神の守りの下に置かれる様というものを表現していると解釈することが出来るでしょう。
具体的に言うならば、主イエスの元に従った弟子たちは、《自分たちは霊的には無防備な者であるけれどもそんな弱さに備えて、神様はあらゆる試練に対して守って下さる》と語っているのです。
このようなケースと申しますのは、「躓き」の原因となる力が外から与えられたケースを言うのですが、続く43-47節では同じようなギョッとするような表現を使って、弟子たち自身に躓きの原因が存在するケースについて述べています。43節には、「もし片方の手があなたをつまずかせるなら」とあり、続く45節では「片方の足があなたをつまずかせるなら」とあります。更に47節では、「もし片方の目があなたをつまずかせるなら」として、その原因となる体の一部を切り捨てなさいと言います。ここでは、弟子たち自身の中に働く誘惑を問題にしております。あらゆる状況の場合に躓きの原因となる対象を切り捨ててしまいなさいと語っています。これは勿論当然ではありますが、、本当に自分の体を切り捨ててしまえと言って肉体を軽視して語るのではなく、神に対する服従は、自分自身の体さえも越えてしまう重要性を持っているのだと言う事を、このように極端な表現を用いて語っております。
弟子たちを「躓かせる」というのは一体何を意味するのか。それは、弟子たちが神の国へと歩み行く事を妨げて、彼らを地獄へと投げ込んでしまう事を言います。「地獄」と訳されているギリシア語の原語では、「ゲヘナ」或いは「ゲヘンナ」(γєєννα)と申します。もう一つの単語に、「ハーデス」というものもありますが、これは黄泉の国の「黄泉」で使われる事が多い言葉です。「ゲヘナ」なる言葉の元々意味するものはエルサレムの南にある谷の名前です。旧約聖書のヨシュア記15:8にベン・ヒノムの谷という記述がありますが、この谷のことを指す言葉が「ゲヘナ」です。この谷は、汚れた場所、つまりエルサレムの都の為のゴミ捨て場でして、そこではいつもゴミを燃やすための火が炊かれていて、腐敗したゴミには蛆虫が湧いているような場所であったとされます。「地獄」という場所はそのような汚れに塗れたゴミが投げ込まれている場所を連想させます。
主イエスは強い決意の元にエルサレムを目指しましたが、その道を進む途中で今日の言葉が語られております。非常に激しい言葉です。その激しさは一体何処から来るのか? 申すまでもなく、それは神の国に入ることへの確信であって、それがどんな犠牲を払っても惜しくはないほどの恵みである事が、その理由なのです。永遠の命に与ることができる恵みを本日の聖書は逆説的な表現を持って、私たちに語りかけているのです。
主イエスと共に、エルサレムへの道を旅した弟子たちと同じように、私たち信仰者にも、外的、或いは内的な躓きの石は、道のあちこちに散らばっています。そのような躓きの石というものは、各人の信仰が堅ければ堅いほど、忠実であろうとすればするほどに、強烈な妨げる力となって各人の身に降りかかって来ます。それはサタンによる、悪魔的な力だと言って良いのかも知れません。皆さんが日常的に意識しているかどうかは分かりませんが、私たちを躓かせる力は、常に間違いなく働いているのです。
信仰者を躓かせる力というものは、様々な形で私たちに襲い掛かって来ます。外部から働く力で言うならば、それは例えば教会員同士の間に働いている互いの裁き合いの力でありましょう。内的な力である場合ならば、それは個人の信仰を弱めようとするような、或いは教会から離れさせようとする力でありましょう。皆さんも、常にそのような試みが与えられていて、その戦いを強いられているのではないかと考えるものです。
長い教会生活を続ける中で、何度か皆さんもそのような躓きは何度か経験をされたのではないでしょうか? 私のようなキリスト教の教師や、神の御言葉に依って武装しようとして神学を学ぶ人たちには、更なる強烈な躓きの力が働いて参ります。些細な経験ではありますが、それに関することを紹介させて頂くなら、神さまからの召命を間違いなく頂いて、神学校に入学した筈の者たちにも、その学びを妨げようとする力が強く働くと言えるでしょう。現実に私の場合は入学を許された同期生は11人でしたが、4年後の卒業時には、わずか6名、それも上級から滑ってきた者1名を加えてたったそれだけの人数に減っていました。このように半分の学生が脱落した理由を、皆さんは一般の学校と同じ様に、自分の努力不足だろうとお考えかと思います。しかし、私が知る限りでは、原因は個人的な努力不足、あるいは力不足などが原因ではなく、本人の力が及ばない場所で、つまり外からの躓きの力が働いたとしか考えられないケースが殆どでした。それは、私自身にも、4年の間に毎年のように神学校から遠ざけようとする力が働き続けたことと重ね合わせて考えますと、間違いなく躓かせようとする力が働いた。そのように断言することが出来るように思われます。
「いや、そのようなことは偶然起きたことだ。」皆さんの中には、そう言って反論される方もいらっしゃると思います。しかし、それはそうではないのです。偶然ではなく必然的な人を躓かせる力が働いた結果として起こった事であります。順調に教会生活を続けていた熱心な教会員が、突然の仕事上の変化によって教会に来られなくなった。牧師として優れたわざを積み上げていた方が、健康上の理由によって辞任を余儀なくされた。優れた教勢を誇っていた教会が、教会員の内部に起こった争いで分裂した。等々、教会或いは教会を形成する信徒の上に起きる様々な躓きを、皆さんも一度ならず目撃されて来られたのではないでしょうか。その理由には、皆さんの目線から見て、どうしてこんな事になったのか・・・、と不思議に思えるケースも時にはあるかと存じます。私には、このようなケースのどれを取っても、悪魔的な力による、躓きの種がもたらした結果と思われてなりません。
新約聖書のマタイ福音書の始めの部分で語られる出来事、すなわちマタイ4章における、主イエスが悪魔からの誘惑に会われた記事は、そのようなことを雄弁に語っているのではないでしょうか。つまり、主イエスが、神の子であればこそ、悪魔はその中核のところに躓きの食指を伸ばしたという事実であります。イエス様が十字架の試練という、一見すると躓き以外の何ものでもないと思える出来事によってこの世を去られたという話も、世に働く悪魔的な力の存在を私たちに知らせようとすることと解釈できるのではないでしょうか。
しかし、このような力に打ち勝ち、この世の全ての悪を滅ぼして、主イエスは復活された。この事実は、私たちの信仰に恵みの光を照らし、その教えに対する確信を与えてくれます。49節に、「人は皆、火で塩味を付けられる。」とあります。「火」とは、神が与え給う試練や迫害のことです。悪をも飲み込む神であられる主が、私たちに試練を与え、それを乗り切ることによって鍛えられ、キリスト者として成長して行くのです。信仰生活を続ける中で、試練としての躓きの石はどこにでも落ちています。与えられた試練を克服し、つまずきの石を乗り越える度に、私たちは一歩一歩信仰の階段を上って行きます。その行き着く先に、主が示してくださった天国への門が開かれるのです。
私たちが天国を目指す途上で犠牲を強いられる前に、主イエスの十字架の犠牲がありました。その犠牲があったことによって、私たちには犠牲が強いられず、試練を乗りこえることが出来るのです。
他の聖書箇所である第1コリント書10章13節には、次のようなパウロの言葉が記されています。
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(第1コリント10:13)
私たちは、このパウロの言葉を信じたいと思います。私たちに試練が与えられ、躓きそうになる時、それは必ずや乗りこえることが出来るものである事を堅く信じたいと存じます。そうして、主が備え給う道を着実に、一歩ずつ歩んで行く事を願うものです。
お祈りいたしましょう。 アーメン