このページには主日礼拝で行った説教要旨と録音を掲載いたします

 

下記に2026年1月第2週から2月第1週までの冨里教会礼拝説教の録音と説教原稿を載せました。

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(2026年2月1日説教)

(2026年1月25日説教)

(2026年1月18日説教)

(2026年1月11日説教)

《2026年2月1日の説教要旨》

ルカによる福音書 第53339節        2026.2.1

説教題: 「断食の是非」
 今年の礼拝は年頭からルカ福音書を読んでいますが、今日の説教は「断食」という話題を取り上げます。断食に関する話は、特に珍しくも難しくもない話題ですけれども、お集りの皆さんの中にも、断食という行為を経験された方がおられるかと思います。しかしそのご経験の場合は、多くの場合、病気の治療法方とか健康を保つためのダイエットというケースなどではないかと思います。

なぜ人は断食するのか? という話題に関して、インターネットで断食に関する記事を調べてみたところ、次のような記事が目に留まりました。

「断食では食事は断つもののだけは飲む場合もある。食糧を摂らないことを「絶食」(ぜっしょく)または「不食」(ふしょく)とも言う。 以下のように、様々なことを目的とした断食がある。

·             古来から多くの宗教で行われている精神修行の一形態としての断食。

·             健康法しての断食。

·             医療目的、ヘルスケア目的の断食(断食療法)。英語ではファスティングfasting)。

·             デトックスとしての断食。

·             ダイエットとしての断食(上記のファスティングを応用したものも含んでいる。正しい方法・指導に沿い実行しないとリバウンドし徒労に終わることもある)。

·             自身の思想を世界に訴えることを目的とした断食(ピースフード Food for Peace)。

·             抗議手段としての断食(=ハンガー・ストライキ)。

·             一定期間(一般に48時間から72時間)絶食すると、体は食糧の供給が停止したと判断して体内に蓄積していた栄養を消費する能力をもっている。この体内に蓄積した栄養が続く範囲なら、食事を摂取しなくても生命を維持できる。」

以上のような記事に目が留まったのですが、この記事の場合には健康のための断食という説明が最も多いように感じました。私も自身も過去には、医療のための断食(絶食)は何度か経験したことがありますが、修行のための断食という事は、未だ経験したことがありません。今ご紹介いたしましたように、健康維持や意思表示の場合の断食を別とすれば、宗教的な理由としては、神に自分の願いを聞き入れてもらうためや、自分の霊的な意識を高めることを目的として行われるケースが、ネット上には最初に紹介されていました。

「断食」とはすべて、食べ物を食べないことであって、水は飲む場合が多いのですが、時には食べ物だけではなく、すべての飲み物も更には自分のつばさえも飲み込まないことを意味する場合もあるようです。食欲を制御しようとすることは、普通は大変な精神力が必要とされます。そんな精神力を備えた人を私たちは、直感的に、何か人並み外れた神に近いような人であると思ってしまうかも知れません。このような観点に於いて、世界の様々な宗教の場合は、断食という行いは必ず守られねばならない教えであったり、あるいは崇高な行為として薦められたりする訳です。

それでは新約聖書の場合には、断食についてどのように書いているでしょうか。調べてみたところ、新約の時代の宗教的な指導者であったファリサイ派の人たちが尊敬されていた理由の一つが、週に二回の断食であったとされています。主イエスの例えには、ファリサイ人が次のような祈りを捧げた事が書かれています。

「神よ。私はほかの人々のようにする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」

このような祈りをする人たちに向かって、イエスは言われます。

「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けている。あなたは断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

これはマタイ6章16~18節にある言葉です。更には使徒教父文書であるディダケーにも次のような記述があります。

「あなたがたは断食を偽善者のそれのようにしてはならない。彼らは週の第2日(月曜)と第5日(木曜)に断食するのだから、あなたがたは第4日と金曜日とに断食しなさい。」

これはファリサイ派の偽善的な断食に対する潔癖さから、彼らが行う断食を1日ずらして行ったクリスチャンの態度を示すものではないかと考えられます。

続いて、旧約聖書に示されている断食に関する記事の方にも目を留めてみたいと思います。旧約聖書の場合は、例えばサムエル記下1215節から次のような記述がみられます。

「ダビデ王は自分とバテシェバの子どもが病気になって死にそうな時、断食をして引きこもり、一晩中、地面に横たわって、子どもが死なないようにと神に願い求めた。」

このように神に願い求める時に人々は断食をしたことが記されています。

他にも、同じサムエル記ですが上3113節の場合には、サウル王と息子たちが死んだ時に、ダビデとダビデの家来たちは断食をしたことが記されています。このように、誰かが死んだ時や戦いに負けた時、あるいは大きな悲しみがあった時などに人々は断食をしたことを伝えております。

以上のように、旧約の律法の書に於いて規定された断食というのは、大贖罪(だいしょくざい)()に行われたものが唯一のものです。この他にバビロン捕囚の後になると、国家的な災厄の日が断食によって記念されるようになって、一年に4回守られるようになりました。更には、断食そのものに功徳があるとして考えられるようになり、新約の時代になりますと、律法を授かるためにモーセがシナイ山に登ったという木曜意日と、下山したという月曜日に断食することが律法化されるに至りました。

今日の聖書個所に戻って考えてみると、ルカ福音書533節からは、イエスの弟子たちの行動を当時の人々にとっては不可解なことと考えて、人々がイエスに尋ねたことを伝えています。

 「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」 このように尋ねます。

 食べたり飲んだりするのは人間ですから、誰でもすることなのですが、そんなことが話題になるほど、イエスの弟子たちは他の人々の目には飲んだり食べたりが優先しているように見えたのかも知れません。そんな問いに答えて、主イエスはこう言われました。

「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。」

 この言葉は、主イエスを花婿にたとえ、婚礼の時を想定した譬えです。つまり、喜びの婚礼の祝宴では断食したりしないのと同様に、今はイエスと共にいる喜びの時だから断食をしないのは当然だということです。

ここでは、今をどういう時代と捉えるのか、というイエス様の時代の捉え方が明らかにされています。それはイエスの考え方ばかりではなく、断食をしない弟子たちの捉え方でもあります。彼らは主イエスのご命令で断食をしない訳ではなく、今の時が主と共にいる喜びの時だからこそ、断食はふさわしくない。そのように考えているのであります。そして、主イエスは次のようにも言われます。

 「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」(ルカ5章35節)

 この言葉というのは、主は断食そのものを否定されているのでなくて、断食をすることが必要な時もやがて来るのだと言うことです。その時に「花婿が奪い取られる時」だと言っております。ここで主が語っている「花婿が奪い去られる」というのは、一体いつの事を言っているのでしょうか? 主イエスはその答えを語ってはいないのですが、恐らくは、主イエスの十字架の出来事を言っているのか。あるいは、主の再臨の日までのことを語っているのか。答えはどちらかでなければならないと言うことではないでしょうか。

「イエス・キリストが、私たちから遠ざかっている。」と感じる時こそが、悲しみを覚えて、そのつど断食するのだ。そのように言われているのではないでしょうか。

は今日のお話に於きまして、人々とのやり取りを通して、ただ断食が良いか悪いかあるいは必要か必要でないか、というような事を教えたのではありません。主イエスは、新しい服に継ぎを当てることの話や、新しいぶどう酒を入れるための皮袋の話を通して、主とともに新しい時代が始まったことを教えております。

断食に対する捉え方も、その中の一つの表現に過ぎません。週に何回断食するという、外に見える形式を重要視して律法を行うのではなく、主と共に歩む中から律法が求める生き方をしなさい。そのように主は言われているのです。

 今日の例話を通して、イエス・キリストが私たちに命じていること。それは、「主が示された新しい生き方に従って生きなさい。」ということです。ここには、今をどういう時代と捉えるのか、というイエス様の時代の捉え方が明らかにされています。それはイエスの考え方だけでなく、断食をしない弟子たちの捉え方であるとも言えます。彼らは主イエスのご命令で断食をしない訳ではなく、今の時が主と共にいる喜びの時だからこそ、断食はふさわしくない。そのように考えていた事を覚えておきたいと考えるものであります。 それでは一言お祈りをお捧げしたいと思います。

アーメン 

《2026年1月25日の説教要旨》


ルカ福音書 第2116節              2026.1.25

説教題: 「銅貨2枚の献金」
 

今日の聖書のお話も大変に良く知られた内容でありまして、私たちがあるべき信仰の手本として語られる機会が多いお話です。今お読みしたところですが、改めて概略を説明致しますと次のような内容になります。

主イエスが、金持ちたちが賽銭箱に献金を投げ入れるのを見ていました。お読みした箇所には金額が書かれていないので詳しくは分かりませんが、金持ちということなので恐らくはまとまった金額の献金であったことが想像されます。続いて貧しいやもめも献金を投げ入れました。ここでは、「レプ゚トン銅貨二枚」だったと書かれています。
 どのくらいの金額だったのか知るために、聖書の巻末の付録に付いている<<度量衡>>の表を見てみると、「1レプ゚トンは1デナリオンの128分の1」と書かれています。「1デナリオンは、一日の賃金に当たる。」という事なので、これを今の賃金水準から考えるとどれ程の額なんでしょうか。このところずっと賃金単価というのは殆ど上がっていないように思えるので、日当で言えば8000円から一万円ぐらいといったところでしょうか。

日当を8000円と仮定するなら、レプトン銅貨2枚では、8000円÷128×2=125円で、125円位ということになります。これは、私が奉仕していた教会学校の場合に、多くの子どもたちが捧げていた献金額くらいと思えますが、決して多額の献金とは言えないでしょう。

しかし主イェスは、「この貧しいやもめはどの人よりもたくさん入れた。」と言ったと書かれています。この貧しいやもめが、他の金持ちよりも多くを捧げたと言うのです。勿論、イェスが言われた多くという言葉は金額を言っているのではではなくて、精神的なこと、気持ちの問題です。やもめは(まこと)の思いを持っていて、誠実に神様に捧げものをしたということを示します。そのように、神様のお役に立つことと、喜ばれることとは別の問題と言っているのです。金額のことだけ考えれば、金持ちの献金の方が教会にとっては有難く、役に立つものだと言えるでしょう。しかし、ここで聖書は、神様がやもめの捧げた125円の方を喜ばれる方だと語っております。

キリスト教関係の書物は、昔から、教会史における献金を「10-1献金」という呼び方によって自分の全収入の10分の1を捧げることが望ましいとされて来たと紹介しています。しかし、献金をするに当たって大切なことは献金額の多少ではなく、神様から頂いた恵みに対する感謝の気持ちを、決意を持って献金することであると言えます。何か税金でも徴収されるような気持ちを抱きながら献金するなら、それは献金の名に値しないものであると言わざるを得ません。私自身も教会の信徒として生活する中で、陪餐会員の義務としての献金という考えをしてきた覚えもありますが、決してそれは正しい考えではなく、自主的な献金、ボランティアとしての献金が望ましいものではないのかと、現在では考えております。

このような考えというのは、決して献金に限ってのことではありません。神様への奉仕などに関しても同じ事が言えます。人間には、高い能力が与えられている人と、そうでない人が存在することは、一般的に認められていることです。多くの能力を与えられている人は、それほどの苦労をしなくても、立派な奉仕の務めを果たせるかも知れません。これに対して、能力が劣っている人は、何倍もの時間をかけて一生懸命努力した結果に、やっと務めを果たせるのかも知れません。会社の仕事だったならば、恐らくは沢山の仕事をこなせる人が仕事の出来る人として、重宝されて重要なポストに就くことも出来るでしょう。

仮に、教会庭の雑草取りのご奉仕を、皆で一斉に始めたとすれば、私のように年老いて体の動きが鈍くなった者は、多くの仕事をこなすことは出来ないでしょう。しかしキリスト教でのご奉仕の場合には、神様が喜んで下さるのは、少なくとも、心を込めて奉仕したお年寄りの方ではないかと考えられるのであります。

民様ご承知の4つある福音書の中で、マタイによる福音書には、その20章に皆さんが良く知られている「ぶどう園の労働者のたとえ」と題された話が書かれています。ここでは、農園の主人が、夜明けから仕事を始めた人も9時から始めた人も、12時、3時、5時と遅れて仕事を始めた人も、夕方仕事が終わった時点で、全ての人に同じ労働賃金を支払ったと言っています。普通に考えれば、平等とか公平とかの基準から外れている話であろうかと思います。しかし、神様の目からみた公平は、このぶどう園の労働者に対する賃金の支払い方法であることを教えるのです。「後のものが先になり、先のものが後になる。」これが神の私たちに対する公平な取り扱いの結果であることを教えているのです。

私たちは、度々「普通」はという表現を使っています。それは一般的な基準をどこに置くのか、あるいはどのランクに属する人が最も多いかという、標準設定あるいは平均の採り方の問題ではないかと思います。その為に、自分はまあ標準的な存在だから、他者と比べて劣っていると考えていない人たちは、「普通は」という表現を抵抗なく使うのだろうと考えます。それと反対に、自分は他の人と違う、劣っているかも知れないと考える人は、「普通は」という表現に抵抗を感じるのではないでしょうか。障害を持つ方や社会的に低く見られている人々や、在日の外国人などは自分を「普通」というグループに入れては考えないでしょう。つまり、自分自身を多数派と思うのか、少数派と思うのかによって、「普通」という表現を許すか許さないかが決まって来るのではないかと思います。

私たち人間は、集団生活を好む生き物(存在)です。ですから、自分が多数派に属する存在である場合には、一種の勝利者意識を感じます。安心感を覚えます。しかし、そんな時こそが他者を見下したり、地分たちが何か優れた存在でもあるかのように思ってしまう、危うい時であると考えるべきではないでしょうか。常に自分の目線を低くして、世の中で低くされた者の立場で物事を考えていくことが、特に私たちキリスト者にとって大切であると考えます。

今日のお話で主イェスは、貧しいやもめが献金を捧げるのを、じっと見ておられました。そして、「どの人よりもたくさん投げ入れました」と言われました。彼女は主イェスがそのように言われたことを知ったとき、どれほど喜んだことでしょう。彼女は、「125円では何の役にも立たない。やめておこうか。」と思ったかもしれません。でも、捧げました。私たちも「私のような者が何の役に立つだろう。」と捧げることを躊躇するかもしれません。しかし、自分にあるものを心から捧げるなら、神様はその心を見られて喜んでくださるのです。どれだけ能力があるかは関係ありません。全知全能の神が困ることは何もありません。金がなくて困っているので、捧げるように言われるのではありません。自分で出来ないことを私たちにするように命令するのでもありません。

では、なぜ、神様は私たちに奉仕することを求められるのか。それは、私たちの愛を求めるからであります。神様から頂いた恵みに、私たちが愛をもって答えることを求めておられます。神様の見方は、人の見方と全く異なります。5節には、「ある人たちが、神殿が見事な石や奉納物で飾られていることを話していると、」と書かれています。人はきらびやかな物に目を捕らわれますが、神様はそのようなものにも、レプトン銅貨などにも目を向けはしません。この世のものはやがて崩れてしまうからです。レプトン銅貨も永遠に存在しませんが、愛によって築かれたものは崩れないのです。

 6節で主イェスは、「あなたがたの見ているこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」と語りました。事実、威容を誇ったこの神殿は崩されました。しかし、やもめの捧げたレプトン銅貨は聖書の中に残されました。神様の記憶の中に永遠に残ったのです。私たちは小さなものであり、まことに取るに足りないものです。しかし、自分にあるもの、そして自分自身を捧げるものであることを願っているものです。真の思いをもって捧げたものは永遠に残ります。私たちは、「こんな些細なもの、自分はつまらないもの」と言って捧げることを躊躇するのではなく、ただ感謝の思いを持って、神様に捧げる者でありたいと願うものであります。   アーメン

 

 

《2026年1月18日の説教要旨》

ルカ福音書 第41430節              2026.1.18

説教題: 「預言者のつまずき」
  聖書の中でも救いを待ち望んでいる人というのは沢山登場します。彼らが聞いていたのは、例えば、聖書の中の救いの約束は「やがて」実現するだろうというような教えでした。今日の聖書箇所においても、主イエスは、21節でこのように言われています。

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」(ルカ4:21)

18節から19節における記述に於いて主イエスが礼拝で朗読された聖書箇所は、イザヤ書61章の1節と2節です。 その部分をちょっと開いてみたいと思います。(旧約聖書1162ページ)

 この部分がルカの4章18~19節で引用されている箇所です。その19節にある、「主の恵みの年」というのは、もともとは旧約聖書のレビ記25章に出てくる「ヨベルの年」のことを言います。ヨベルの年とは〈〈喜びの年〉〉を意味する、50年目に1回守られた規定(決まり)を指しています。すべての負債が免除されて、借金の片で土地を失っていた人々に土地が戻る。或いは貧しさのために奴隷になっていた人々などが解放される年でした。このヨベルの年の規定は、歴史上どれほど実際に行われていたのかは分かりません。日本でも江戸時代の大不況の時に出された「徳政令」という借金を棒引きする、一面悪法といわれた制度があった事は学校の歴史の授業で学びましたが、このヨベルの年は、もしかすると理想だけの事だったと言えるのかも知れません。しかし、貧しい人々はこの解放の年を待ち望んでいました。この恵みの年が今日実現した。これが主イエスの説教でした。つまり、恐れや不安、迷いなどにとらわれている人々に、ヨベルの年のような救いが来たということを言っています。このイエスの言葉は衝撃的でした。

人々はこれまで、「この聖書の言葉は、やがて実現するだろう」という説教を繰り返し聞いていたので、「やがて」という話ならば何も目新しいことはなかったのです。それは、救いは未来のことだからであり、いつか実現するだろうということだったからです。しかし主イエスがお話したのは、「今日、あなたがたが耳にしたとき」に実現したということだったのです。聖書の言葉を聞いているこの瞬間に実現したという話です。ナザレの人々は、イエス様の言葉を信じることが出来ませんでした。そして彼らは驚き、「この人はヨセフの子ではないか。」と言ったのです。

この22節にある〈ヨセフの子〉という言葉には二つ意味があります。一つは、

「この人は私たちが幼いときから知っているあのイエスではないか、その人がこんなすごいことをできる訳がない。」

ということ。もう一つが、聖霊によって宿ったという主イエスが神であることを全面的に否定することです。このように考えていた人々に対し、主イエスは続く23節で、次のように話します。

「きっと、あなたがたは、医者よ、自分自身を治せということわざを引いて、カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ、と言うに違いない。」(4:23)

カファルナウムという町でいろいろな奇跡を行ったことが評判になっている。それならば、医者に自分を直せと言うように、この目の前で見せてくれ、そうしたら信じてやる。とあなた方は言うだろう。そういう意味です。世界のどこかで起こった奇跡、遠い国で誰かに起こった出来事ではなくて、人々にとっては、この自分にも起こるのかどうかが重要でした。そのように考えている人々に対して、さらに主イエスは425節から27節の発言で次のように言われています。

かつて旧約聖書の時代、サレプタというところに住んでいた貧しい女性が、家に最後に残った一握りの粉でパンを作り、預言者エリヤに与えた。そのとき彼女も家族もエリヤも、驚くべき神の奇跡で養われた(これは歴代史上17章)。あるいは、シリア人ナアマンは預言者エリシャによって重い皮膚病を癒された(これは歴代史下5章)。このように旧約聖書の話をします。

主イエスのお話しに登場する、この人たちはともに外国人でした。当時、ユダヤの民の神の救いから遠いと考えられていた人々です。そのように、救いはもたらされないと考えられていた人々のところにも、神は恵みを与えてくださった。それなのに、どうして自分たちにはそういうことが起こらないのか。

そのように考えた人々は、主イエスに詰め寄ります。旧約の人々に対して起こったことと、ナザレに起こることの違いは何でしょうか。それは、次の言葉に見る事が出来ます。

「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」(4:23)

人々はイエス様を信じることが出来ませんでした。これは神の子なんかじゃない、ヨセフの子ではないか。ということです。イエス・キリストを神と信じるか信じないか、ただこの一点だけで彼らは「預言者につまずいた」のでした。それでは、主イエスの故郷ふるさととはどこにあるのでしょうか。

私たちは神を信じています。毎週のように教会に集って礼拝をし、クリスチャンである私たちこそが主をお迎えする故郷(ふるさと)だと言うことが出来ます。聖書はまず第一にそのことを教えます。しかし、そんな私たちほど、自分の現実の生活の中では、敢えて主をお迎えしない、ということがあるのではないでしょうか。この問題とは、つまり、「信仰ではどうにもならない。生活上の問題や仕事上の問題は、神に祈ってもどうしようもない。」と決め付けて、諦めていることです。生活における問題は、信仰とは別次元のことであると決め付けてしまう時、頼るべき信仰を失って行くのです。信仰が現実に負けてしまう時、と言って良いかもしれません。

私たちは、聖書に出てくるナザレの人のように生きるのか、それともサレプタの女性やシリア人ナアマンのように生きるのか。つまり主イエスの、

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」(4:21)

という言葉を信じるのか。そのことが今問いかけられています。聖書が私たちに教える二つ目のことは、この言葉を信じることです。信じることが信仰です。21節の「耳にした」という言葉は、「耳に入れた」という意味を持ちます。漠然と聞いたことではなくて、信仰をもって受け入れたということなのです。主イエスに祈ってもどうにもならないのではないか、と思う時、それは私たちが、「この人はヨセフの子ではないか」と言うことなんです。信仰と生活を切り離してしまう瞬間です。しかし信仰と生活が別々のものであったならば、本当に困っている時に信仰は何の力もないものになってしまいます。切り離せないものだからこそ、信仰は私たちの生活の助けになっていくのです。

さて、ここで話が少し逸れます。皆様の中でご存知の方も多いか思いますが、8年ほど前に亡くなった日本のキリスト教信徒を代表される人で、東京女子大学の学長をされ、成田空港の訴訟の仲介役を務められた隅谷三喜男という方がおりました。隅谷三喜男先生は、日本人の信仰というのは「二階建の信仰だ」ということを言われました。日本人は、聖書を後生大事にはする。大事にするがゆえに二階の客間に聖書を飾っておいて、日曜日だけ、それを開く。後の六日は、聖書は二階の客間に置いたまま、一階に降りて来て、イエスさまのことは、とりあえず上に置いておいて、まるでそれがないもののように生活をしている、そういう信仰生活のありようを「二階建の信仰」と呼んでおられます。隅谷先生は、そういう生き方ではいけない。もっと聖書の生き方と、自分の生き方を切り結んでいかなくてはならないということをおっしゃっているわけです。すなわち、日曜日だけの信者である。牧師も同じで、日曜日と他の日と二階建てに住んでいて別々の生活をしている、このようなことを著書、「日本の信徒の神学」という題名の本に書いておられます。大変に耳の痛いお話ですが、特に私のような牧者にとっては肝に銘じるべき事柄であります。

先生が言われるように信仰と生活とが切り離されてしまう時、ナザレの人々のような、「これはヨセフの子じゃないか」という言葉を発してしまいます。自分の生活のある断面において、とても自分の力で解決することが出来ないような問題と遭遇したとき、信仰に基本を置く生き方をしていない人は、簡単に出来ないとあきらめてしまいます。しかし、自分の目には不可能なこと、絶望的に思える時でも、神は救いの手を差し伸べられるのであります。神を信じる人とは、そのことを信じる人です。私たちがもうだめだ、と思ってしまう時、その時こそが、「預言者は故郷では敬われない」という主イエスの嘆きが聞こえてくる時なのであります。

聖書に戻りますと、今日の話の中で、イエスを信じなかった人々は憤慨して、イエスを町の外へ追い出し、崖から突き落とそうとします。しかし、主イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られたのです。人々の真ん中を通り抜けていかれるのです。目の前の現実に負けそうになる時、不信仰を突き破る力というものはここにあるのです。これが、聖書が教える三つ目のことです。

神に期待することとは、即ち「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という言葉を信じることです。明日のことならば、「いつか」なら、ただ待てば良いでしょう。しかし、「今日」である以上、私たちは待ち望むだけではなくて、実際に歩み出さねばなりません。聖書が教える三つのこと、教会に於ける礼拝に集い聖書の言葉を聞き、今日、実現したという言葉を信じ、そして主イエスこそが道を通すお方であることを信じ、信仰と生活を一致させるために、あちこちに潜む、すべての躓きの石を避ける道を歩んで行かれることを願っております。

それでは一言お祈りを致しましょう。アーメン

《2026年1月11日の説教要旨》

ルカ福音書 第5111節          2026.1.11

説教題: 「お言葉ですから」

本日の聖書、ルカによる福音書のお話は、イエス様の奇跡物語の中でも大変良く知られております箇所で、ペトロが主イエス・キリストの弟子として召命を受けた時のお話です。ゲネサレト湖(現在はガリラヤ湖のこと)の漁師だったシモン・ペトロは仲間と共に一晩中漁をしましたが、1匹の魚も獲ることができませんでした。そんなペトロに対して、群衆への話を終えた主イエスが、再び漁をしてみるように勧めます。プロの漁師であるペトロは、色々な思いを持ちながら主の言葉を疑っていたように思われます。5章5節です。

 「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」(ルカ5:5)

と、しぶしぶ主の言葉に従いました。前の4章から書かれている記述によれば、主イエスによる病人の癒しや、多くの奇跡的な行為を目の当たりにしたペトロでした。しかし、ここでは素直に主の言葉を受け入れる事に抵抗があったように見受けられるようなニュアンスを聖書は伝えています。そんなペトロの予想を裏切るように、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」と続く6節には記されています。さて、このような驚くべき大漁を経験することによってペトロは一体どのように変えられたのでしょうか。続く8節には、

主イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」

というペトロの言葉があります。奇跡的な出来事を引き起こす力のある主イエスの前には、立っていることの許されないような(けが)れた罪人であるということを、彼が深く自覚して告白したことがここに示されているのです。考えてみればペトロという人は、この時まで人並みに生活をしてきて、熱心に漁をして家族や母の面倒を見ながら生活してきたのでしょう。もしかしたら、彼は少し早とちりの性格だったかも知れません。或いは、「自分にはいいところもあるが、悪いところ、欠けたところが確かにある」というような意味で、自分が罪深い者であるとペトロは告白したのでしょうか。また更には、主の言葉を疑ったことを嘆いて、「もっと素直に従えばよかったのに、自分は何と疑り深い人間だ」と、そんな意味で自分を罪深いと言ったのでしょうか。さて、どんな気持ちを持ってペトロが自分を罪深い者ですと言ったと、皆さんはお考えですか?

 ペトロの考えていたことを、もう少し深く考察してみますとペトロは、この程度の意味で、主の前に立っていられないほどに自らの罪深さを感じたのではないことが分かって参ります。恐らくは、ペトロの自覚はもっともっと深いところにあったのではないでしょうか。
 
ある注解書は、ペトロがここでひれ伏してしまったのは、<彼が光を見たからだ>、或いは<光に目がくらまされてしまったからだ>と解釈しています。そして、更に次のようにも言説明します。

「先ずイエス・キリストがおられる。この方は、人間が罪人であるかどうかを問題にしているのではない。イエス・キリストは、大きな満ち満ちた祝福を与えてくださる。恵を与えてくださる。そして最後に罪がくる。人間はここで罪人となる」。

  この注解書の場合は、「主イエス・キリスト→恵み→ペトロが罪を自覚する」という順序に注目しているようです。

人間は主イエス・キリストの光の只中でその光に照らされて、

「自分はこの恵みに値しない人間である。何と惨めな者なのだろうか。この光の中で、私は死ぬ以外にない。」

と悟り、

「主よ、この私から離れてください。」

と言わざるを得ないのだと解釈しております。
私たちは、神を知る以前には、また、主イエスと出会う以前には、自分の良心というものに依り、自らの罪を知らされていました。

「こんな悪いことをしてしまった。こんなひどいことを言ってしまった」。

勿論そんな罪の自覚ということは大切なものです。罪の自覚によって悩み、教会に来たと云われる方もおられます。しかし、聖書が語っている罪、私たちが教会において神の前に知らされる罪、そしてペトロがここで自覚させられた罪というのは、圧倒的なキリストの光に打ちのめされて、もう立っていられないほどの罪であります。この方のそばになんていられない、「主よ、私から離れてください。」と言わざるを得ないような罪なのです。

そんな指摘に対してある方は他の表現に使って、

「いや、そうではない。私は自分の罪を自覚したことよりも、主イエスの愛と赦しの自覚によって、教会に召し出された。」

と言われるかも知れません。確かにキリスト教は愛と赦しの宗教であると言われていて、その認識に間違いはないと考えます。しかし、愛と赦しの神であるのと同時に、イエス・キリストの神は裁きの神でもあることを私たちは認めなければならないのです。神の前に裁かれ、滅ぶべき私たちが、今もこうして生きてこの世に在るのは、イエス・キリストの十字架の贖いの故であって、私たちの罪の告白があったから、と言うべきでしょう。私たちキリスト者は全ての人が洗礼を受けます。その時、信仰告白を致します。それは、自分たちが犯した罪を神の前に告白し、赦しを請うものです。この行いを通して神の赦しを頂いた者が、キリストの僕としてブドウの一枝として教会に連なることが出来る。これが洗礼という行いが持っている意味です。

 本日の聖書の教えによれば、主イエスはペトロに、

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(ルカ5:10)

と言われました。その時ペトロは主に「わたしから離れてください。」と言いましたが、主は「恐れることはない。」と言われます。ここにある「恐れることはない」という言葉は、罪の赦しの宣言であると言う事ができます。主はペトロの罪を赦し、そして人間をとる漁師として、新しい使命を与え、新しい人生へと出発させられました。これがペトロの信仰告白でありキリストへの召命なのです。

 私のような教会の教師、つまり伝道者たちは、その道の第一歩を踏み出すに当たり、「神の召命」ということが要求されます。神学校への入学、あるいは教師任職などのそれぞれの区切りの行事に於いて、「召命感」ということを自覚させられるのです。今日の物語で示されている、ペトロが主イエスから頂いた召命は、このような罪の告白と赦しを伴うものです。ぺトロの罪の告白を真実に受け止めた主が、その罪を赦して、召命を与えたのです。

 ここで先の510節に書かれた、<<人間をとる漁師になる>>というギリシア語の本文を直訳してみると、「人間を生け捕りにするだろう」という文章になってしまい、ここには「漁師」という単語は含まれていません。聖書箇所にある<<とる>>という言葉は、原語で「ゾーグローン(ςѠγρѠѴ(ゾーグローン))」という言葉の未来形で示されていて、「生けどりにする」とか「生かす」という意味を持っています。その為に主イエスは、ペトロに対して、「あなたは、人間を本当の意味で生かすために、まことの命へと生かすために、私のもとに連れて来る者となるのだ」と言われたと解釈できるかと思います。

イエスこそが(まこと)の命、永遠の命を与えて下さる主です。これまでは罪の支配、悪魔の支配の中で生きていた人間を、主イエスの恵みの支配へと移すために、主のもとへ連れて来る者となります。

主はペトロに、

「がんばって、そのようになさい」

と言われたのではありません。

「あなたは人間をとる漁師になる。私があなたを、そのようにする。」

と言われたのです。
 しかし、ここでもう一つ気になるのは、なぜ主はペトロを用いられるのかということではないでしょうか。つまり、どうしてペテロだったのか? という疑問です。

 ペトロは、この後何度も失敗を犯します。主が十字架に架けられた時には主を裏切り、主イエスとの関わりを否定してしまいます。誤解を恐れずに言うなら、こんなペトロを用いた理由というのは、主には出来ないことが、ペトロには出来る、という理由ではないでしょうか。分かりやすく説明すれば、ペトロのように自らの罪を深く自覚させられた人間こそが、その罪の赦しの恵みを,人々に伝えることが出来るのだ、と言えるのではないでしょうか。

ペトロが人間をとる漁師、人間を本当に生かす者として立てられたのは、自分自身がまず罪に死んでいた者から、主によって(まこと)に命に生かされた者へと変えられる経験をしたからであります。このような自分の経験を語ることは、赦された罪人である、人間にしかできないと言えるのではないでしょうか。私自身が赦され得ない罪を赦され、この講壇に立たせていただいている身であることを思う時、人をとる漁師として主に召し出されたペトロのように、日々変えられて行かねばならないことを痛感させられるものです。

  何度も過ちを犯しながらも、ペトロは復活の主と出会い、「お言葉ですから」と主に従ったことにより罪を赦されて、人間をとる漁師として遣わされました。「主を裏切り、背いてしまった私のために、主は十字架に架かって死んでくださり、再び赦してくださって、遣わしてくださった」。これがペトロの生涯の喜びであり、福音を宣べ伝えるための原動力でした。私たちキリスト者は、ペトロのように神の前に罪を知らされ、その罪の赦しを経験した者です。そのような私たちに対して主は、「私はあなたを、人間をとる漁師にする」と言われました。ここ富里教会に集われた兄弟姉妹の皆様。ここに集う私たちの全てが「人間を取る漁師」であることに思いを馳せ、新しい2026年を通して、共に力強くキリストの福音を宣べ伝えて参りたいと思います。 アーメン