下記に、9月第4週と10月第1週の冨里教会礼拝説教の録音と説教原稿を載せました。
プレーヤー表示の ▶ マークをクリックすると礼拝説教が聴けます。下にある原稿を見ながらお聴きください。
起動中に || をクリックすると再生が停止します。
(10月5日の説教)
(9月28日の説教)
主日説教: 「あなたは裁くことができるか?」 2025.10.5
マルコの福音書第14章53~65節
ここ何ヶ月かの礼拝説教は、教団の聖書日課に基づく連続講解という形で進めてまいりました。そのマルコによる福音書も、一先ずは今日でひと区切りを付けたいと思います。前回にも申しましたが、マルコ福音書という文書は全体で一つの問いを巡りながら展開しています。それはイエスという方が何者なのかという問いに於ける展開です。つまり、イエスという方の教え或いは力の面で、「一体、この方はどんな人なのだろう」という群衆、敵対者、あるいは弟子たちを巻き込んだ上の問いでした。ところがこの問いに対して、人々は答を出すことに恐れを伴い、ずっと秘密にされて来たのです。これが「メシアの秘密」と言われるものです。ここで秘密と言われているものは、その事に対する問いを発する時に、常に緊張が伴われて来たことを表すものです。その緊張とは、神様がこの世界に介入されることによってもたらされる緊張ということを意味します。
マルコ福音書の前半におけるクライマックスは、「あなたはわたしを何者だと言うのか」 という主の問いに対して、ペトロが、「あなたはメシアです。」と答えた場面がそれです。これに対して、最後の結末の場面に於けるクライマックスは、百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」という告白の言葉によって表現されるものです。このように、福音書という書物で語られている内容と言うのは、「イエスというお方は誰なのか」という問いであって、そのお方を証しするための答えなのです。
さて本日の聖書箇所では、イエス様がエルサレムの最高法院で裁判を受けさせられるところを学びます。弟子たちの裏切りによってユダヤ当局によって捕らえられたイエスは、大祭司のところに連れて行かれ、最高法院による裁判にかけられます。その罪状というのは、イエスが自分をメシアと称した事、その証言によって神を冒涜したという事でした。彼らがイエスを捕らえた理由は、イエスを有罪と判決することによって死罪に処することにありました。主イエスはその事を最初からご存知でしたから、不利な証言に対して黙り続け、敢えて反論することはしませんでした。すると大祭司は重ねてイエスに尋ねます。
「お前は、ほむべき方の子、メシアなのか。」 その問いに対してイエスが、「そうです」と答えると、その場に集まった一同に対して、それ見た事かと、その言葉は神を冒涜するものであると訴えて、一同がイエスを死刑にすべきであると決議しました。これが本日の聖書箇所が語っている全貌であります。
このような決議がなされた時間というのは、主イエスの一行が過越しの食事をした夜の出来事でした。そんな夜半に何故当局は、イエスを裁判にかけなければならなかったのでしょうか? それは、白日の下で裁判をしたならばイエスに死刑を宣告することができないことを、当局の者たちが知っていたからなのです。従って、この裁判の審理が不正であることは明らかであります。裁判そのものは正式な裁判として開かれ、必要な手続きが行われ、証言がなされ、証拠調べが行われました。しかし、律法に基づく立証には不十分であったことが明らかにされています。59節に、「しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。」とあります。この審問の成否は証言が一致するかどうかにかかっていることを考えると、証言は、証言者や裁判人の目的である、主イエスを有罪にすることには役に立たなかったのであります。
これらの証言に対して、イエスは黙り続け、何もお答えにならなかった(61節)。これによって、審問は行き詰ります。この沈黙を打ち破ろうと、大祭司は、自身の務めを果たすために決定的な問いを口にします。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」。これがその問いです。
この問いは、これまで弟子たちが恐れの余り、主イエスに対して問うことが出来なかった問いであります。
具体的に言うならば、ペトロが、8章29節で主イエスをメシアと告白しましたが、その直後にイエスはそのことを誰にも話さないようにと戒めています。これが、「メシアの秘密」と呼ばれるものです。ところが、ついにここで、イエス様ご自身が、その封印を解くのです。主イエスが沈黙を破り、その問いに答える時がついに来たのです。大祭司の悪意と策略に満ちた問いに対し、何故、主イエスは、「メシアの秘密」である謎をこの場で解かれたのでしょうか? もし、この問いに対し、主イエスが沈黙を続けたなら、大祭司はこれ以上の審問を続けて、主イエスを偽りの罪に貶めることは出来なかったのではないでしょうか?
このことに対する結論を得る前に、本日の説教題の「あなたは裁くことができるか?」という命題に関して、私たちは少し別の角度から、「人を裁くことの難しさ」を考えて見ようかと思います。
私たちクリスチャンは、日ごろから聖書を学ぶ中で、自分は神の教えを正しく身に着けていると思っています。聖書が語るところによれば、「目には目を」として他者が犯した罪を裁き、悪行への報復を教えていますが、その一方で、「他者を裁くことなかれ」と語り、悪業を犯した者をも赦せと教えます。一見すれば、これらの教えは矛盾しているようにも思えます。聖書の教えに従おうとする私たちが、時として迷うことの原因は、このような矛盾する教えが存在するからなのでしょうか?
主イエスが指し示しているのは、神の教えを聖霊の導きに従って解釈せよという事であって、どのような判断が正しいのかを、個別に教えてはくれません。先ほど言及した裁判員も、自分の判断は正しいと信じていたから、それぞれの主張を訴えたのでしょう。そうであるならば、「正しい者は一人もいない」と語る聖書の教えを常に心に留め、聖霊の招きに従って、祈りの内にそれぞれの選んだ道を歩むことが、神の真理であると考えるものです。
さて、聖書に戻って、先ほどの「メシアの秘密」について、何故主イエスがその謎を、ここで解かれたのかを考えて見たいと思います。イエスに対して与えられた問いは、悪意と策略に満ちたものでした。しかし、そうであってもイエスは自分自身を否定することは出来ないのです。それは、イエスが神の御子であることに由来し、その出来事が神のみ旨によるという理由に依ります。大祭司は、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋ねています。ということは、大祭司自らが、イエスが神の御子でありメシアである事を告白した表現になります。これによって大祭司の務めが終わり、それからの務めはキリストに引き継がれることになります。それ故に、神の子イエスはこの時点で自身の謎を解かれたのであります。
人の知恵が歴史を刻む中で求めてきたものは、神なしに生きるという事でした。現在の世界は、この方向性に対して一層、拍車が掛けられているようです。今の世界は、人の知恵が作り出したものに行き詰まりを覚えながら、その行き詰まりを乗りこえる術を見出せずにいるかのように感じます。それは、知恵の結末が迫っていることに対する危機感だ、と言えるのかも知れません。この危機感は科学技術の分野だけでなく、人間の営み全ての上に、何らかの地球外生命体が侵略を始めたかのように覆い始めているように思えます。人が神なしに生きるという命題に対して、それが正しいと評決を下してしまう時、その評決によって自分自身が裁きを負う者と成り果てる事を私たちは忘れてはなりません。
今日の聖書箇所の14章63節には、大祭司が衣を引き裂きながら、イエスの答を冒涜であると断定したことが記されています。大祭司が衣を裂くという行為は、大祭司というその職を放棄したことを意味します。そのことは即ち、大祭司の職務を終えて、彼は人間の知恵によって判断を下したということになります。それは同時に、この後の大祭司の務めは、イエスによって遂行されて行くことを意味するのです。
最高法院がイエスに死刑の判決を下したこと。それは、人間の知恵が、イエスを神の子キリストであると認めることが出来なかっただけでなく、誤まった裁きを下したことを告白するものです。 聖書は私たちが、神に対してさえも誤まった判断を下す者であることを教えています。しかし、それは同時に、裁きの場に立たせられた神の御子イエスの姿を露にすることで、試練の中にある者に、慰めと励ましを与えても下さいます。このように、キリスト者にとっての試練の場とは、そこに主が立っていて下さる事を、希望として与えられるところでものです。自分がいかに過ちに満ちた存在であるのかを知ると共に、どんな試練の場にも希望を与えてくださる主がおられることを知る。このような神のご計画の中に、我らがあることを、今日ここに確信しておきたく思います。 アーメン
主日説教: 「イエスを裏切る者」 2025.9.28
マルコの福音書第14章43~52節
本日与えられた聖書の御言葉に耳を傾けて参りたいと思います。
先ずは、今日の箇所マルコ福音書14章43節をご覧下さい。2週前の礼拝説教でお伝えした12弟子の一人である裏切者のユダは、祭司長、律法学者、長老たちが遣わした群衆を引き連れ、主イエスの元にやって来ます。ここで示された「群衆」という言葉は、ギリシア語の原語では「オクロス」と言いますが、この単語は、マルコ福音書ではあちこちに登場している言葉です。
今日の箇所の13章に至る前の話の中で、「群衆」とされている人は、イエス様の教えを聞いて、救いを求めるために集まってきた人々でした。ところが14章から示された「群衆」と言うのは、祭司長たちの手先となってイエスを捕らえようとした人々なのです。更に、最後に登場する「群衆」というのは、ピラトに対してイエスの処刑を要求した人々なのです。
これからお話する内容は、少々学問的になってしまってご勘弁願いたいのですが、これまでお話した13章と14章にある「群衆」という言葉は、それぞれが意味する内容に違いがあると言われています。これを二つの章の間の「群衆の断絶」というように解釈する聖書研究が存在することをお伝えしておきたいと思います。
それは、受難物語は様々な要素を持った一纏まりの伝承なのですが、その伝承とマルコ福音書の1章から13章までの記述で示された内容の関係性を巡って多くの議論があるという考えです。その原因として、この書が福音書記者によって一定の意図を持って一貫して編集されたという説と、マルコ福音書は元来13章までで終わっていて、受難物語は半ば機械的に接合された付録に過ぎないとする説が存在する為です。後者の解釈をトロクメ-田川説と呼んでいます。つまり、フランスの新約学者トロクメと、日本の神学者、田川建三が提唱した説です。
確かにトロクメー田川説のような見方が出来ない訳ではないのですが、ガリラヤに於けるイエスの宣教活動と、エルサレムにおける処刑直前の状況の違いを比べる時、むしろ伝承またはマルコ福音書にあっては、その違いがそのまま伝えられていると見る方が、私には自然である気が致します。
いずれにしても、ユダによって引率された群衆の手で、イエスは捕らえられてしまいます。ヨハネ福音書では、イエスを捕らえたのは一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちである事を報告しています。つまり千人隊長に率いられたかなりの規模のローマの軍隊がイエス逮捕のために出動していると語っているのです。
ヨハネ福音書を含めて、4つの福音書は全てイエスの処刑に関してローマ側の責任を軽く表現するような傾向があります。しかし、当時の歴史的状況を考える時、ローマの軍隊がイエスの逮捕には出動されたと考えるほうが真実味があるように思えます。その訳は、イエスが活動した時代のパレスティナは、ゼロータイ(熱心党)(熱心党のシモンはイエスの弟子)の運動が民衆の中に浸透して、ローマへの反抗運動が起こっていた時代であるからです。ローマから危険人物と見られていたイエスを逮捕するために、軍隊が出動したことは十分に考えられるかと思います。
ここで横道に逸れて申し訳ありませんが、ドイツ南部にあるオーバー・アマガウという小さな村についてお話させていただきたく思います。この村に関して知らされてから既に15年を過ぎてしまいましたが、イエスの受難に関して思い巡らす時、この村に関係することが私の頭に浮んで参ります。このアマガウ村では、10年に一度の行事として、村全体でイェスの受難劇を催す伝統があります。私が初めて教会教師としての任命を受けた2010年の年も、アマガウ村では受難劇が催されて、日本では「NHKスペシャル」という番組の中で、その受難劇が放送されました。皆さんの中でもご記憶がある方がおられるかも知れませんが、その年には日本の多くの教会で「アマガウ・ツアー」が計画されて、私がいた教会員の皆さんも多くの方々が、「オーバー・アマガウの受難劇」を観るツアーという催しに参加しました。そんな訳で私の頭の中には、NHKの、この受難劇の番組を大きな期待を持って見たことの記憶が、今も強く残されております。
この日のNHK番組が伝えた映像の中に、アマガウ村にイスラエル人たちが招待されて、一緒に受難劇を観賞しているものがありました。観賞後にイスラエル人は、この劇に対するコメントを求められました。その時のコメントの中に、あるイスラエル人の語った言葉が大変印象的でした。それというのは、劇中でユダヤ人たちが、「イエスを十字架につけろ」と口を揃えて訴える場面に対するコメントだったのですが、それは欧米人特有の率直な感想でした。それは次のような内容です。
ユダヤ人がイエスを十字架につけたことを、第2次大戦の時代、ヒットラーに率いられたナチス党が、国民に対するプロパガンダとして、ユダヤ人を迫害し虐殺することに対比させて、正当な理由として掲げたと聞きます。この番組の中で、イスラエルの招待客が発したコメントは、そのナチスが行った非道な行いを糾弾すると同時に、この受難劇の中の主イエスのご受難が、ユダヤ人たちの為だとするようなセリフがあったのは誤りだ、と指摘するものでした。
この番組を見終えた時、人は自分の立ち位置によって異なる考えを持つことを、ユダヤ人の多くがこのような考えを持っていると知らされた事が、強烈な思い出として、今も私の頭に残されております。
再び今日の聖書の最終箇所に戻ります。14章49節で主イエスは次のように語っております。
「わたしは毎日、神殿の境内で一緒に教えていたのに、あなたたちは私を捕らえなかった。」(マルコ14:49)
それまでの主イエスの活動を、捕まえに来た群衆が知らなかった訳はありません。群衆がこの言葉を聞いて思ったのでしょうか? 恐らく、初めから主の言葉を聞く耳を持っていなかったのでしょう。この言葉に続けてイエスは語っております。
「これは聖書の言葉が実現するためである。」(マルコ14:19)
そして、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまったのです。この話に関連する御言葉として先週、私たちは旧約聖書のイザヤ書53章を読みました。
「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。」(イザヤ53:5)
これこそが聖書が語っているメシア預言なのです。
イスカリオテのユダが主イエスを裏切り、弟子たちは皆、イエスを捨てて逃げてしまいました。普通に考えれば、集団の中から裏切り者を出してしまったことは、集団にとって決して名誉なことではありません。その集団のあり方や、指導する者の指導力さえもが問われることにもなりかねません。だから多くの場合、集団はそのような裏切る者を排除し、裏切る者と無関係を装うものであると言います。しかし、福音書はそのようなことはしません。裏切ったことの理由を明らかにしないで、裏切り者ユダが12弟子の一人であったことをも隠さず述べています。裏切りは、神の民のただ中で起こりました。しかし、神の救いは、それを逆に用いて遂行されたのであります。「イエスを裏切る者」。それは私たち自身であることを聖書は、余すところなく教えています。今日の最後の聖書箇所、マルコ14章51節から一人の若者の話が書かれています。
「ひとりの若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」(マルコ14:51―52)
イエスが捕らえられて、連れて行かれようとするところに着いてきた若者がいたのです。彼はそのことを見咎められ、あわてて亜麻布を捨てて裸で逃げてしまったという証言です。亜麻布は、多分、若者が着ていた寝巻きではなかったでしょうか。寝巻きのまま付いて来たというのは、何てドジな若者だろうと私たちは考えてしまいます。この若者は一体何なのだろうかと、歴史上、色々な人たちが推測してきました。そしてその結果、多くの人が出した結論が、この若者はマルコ自身なのではないか、という事だったのであります。
もしこれが本当なら、どうしてマルコはこんな自分の姿を福音書に描くのか? その理由は、既に述べた通り、主イエスを裏切った者は、私たち自身であるということです。
私たちはある時、そこに不正があることを見つけた時、そのことを告発したいと考えます。しかし、自分自身にどんな危害がもたらされるかが不安になり、あるいは自分の身が可愛くなってしまい、勇気をもって告発することが出来ずに、そのことを忘れようとします。
皆様、よくご承知の「良きサマリヤ人の喩え」が教えているように、他者が苦しみ助けを求めていても、自分がその苦しみを分かち合わされないように、見て見ぬ不利をしてしまう自分がいます。
この教えと同様に日本の場合も、沖縄の住民たちだけ特別に、米軍基地での戦い闘機の離着陸騒音で苦しめられるような辛い現実が存在することを、私たちは知っています。知ってはいますが、その苦しみの一部を負わされることには同調せずに、本心からその苦しみを分かち合うとはしない自分があるのが真実の姿です。
マルコは、そのような弱い自分の姿を隠さずに語っています。裸で逃げ出してしまったマルコ自身の姿を聖書は伝えています。どうして、このような弱い人間を描こうとするのでしょうか? それは、私たちが本当は弱く、傷つき易く、罪深い者であることを、主がご存知だからなのです。そのように弱く、身勝手な私たちであることを知っておられる主イエスが、私たちの罪を背負って十字架にかかって下さった事を、私たちは学んで来ました。そのような主イエスの祝福の中で、私たちの罪が赦されているのを知る時、改めて神様から頂いている恵みの深さを有り難く感謝する者へと変えられることを願うものです。
お祈りします。 アーメン